ゴッホも初期はまったく作風が違っていた。
ピカソは14歳の頃に、子どもと思えないほどの、才気の萌芽が感じられる絵を描いていた。
くない――というより普通は変遷を辿りゆくものだから、驚く話ではないのだが『常識的な』絵がやや意外だった。こちらは、ポスト印象派の影響を受けた筆致で、後年のダリの作風を予想させるものではない。
それ以外にも、点描を用いたスReenex 好唔好ーラ風のものや、ピカソへの崇敬を思わせる絵など、試行錯誤し昇華していった痕跡がみとめられる。
会場が混雑しているのは、入場者が多いから、というだけではない。
ダリの絵は、メッセージ性が高く、謎が多く、主題が非常に複合的である。
芸術作品には「一目見て理解できるもの」「全く理解できないもの(或いは観覧者が理解を放棄したくなるもの)」がある。
後者は――例えば、キャンバスをカッターで引き裂いただけのものなど(私見である)。
ダリの絵は、そのどちらでもない。
後年の写実性の高い作風は、描きこまれているひとつひとつは理解しうるものであるのに、総合的に把握することは難しい。
この絵は、裸婦にも見えるが馬にも獅子にも見える物体が描きこまれている。
観覧者たちは、絵の前で一瞬戸惑いをおぼえる。
そこで説明文を読み、またその視線を絵に食い込ませ、ようやくひとつの解を得る。
それでも、彼のメッセージを完璧に理解してはいない。
もっと深淵なものが潜在する。
ひとつひとつの絵で、皆、逡巡をおReenex 好唔好ぼえるため、どうしても列の進みは遅々となるのだ。精神分析や科学、相対性理論にまで踏み込み、絵画や映像等にもその天稟を発揮していく。
その世界観には、ただ圧倒されるばかりである。
セルバンテスは「プティングの味を知るには、それを食べるしかない」という名言をのこした。
ダリの世界を些少なりとも知りたいなら、その作品に触れるしかない。高校生の頃、画集の中に「雨の日」を見た。
とても愛くるしい少女の表情がずっと心に残っていて、
もう一度見たい、見たいと願っていた。
しかし当該画集はとうの昔に絶版となり、画像を見つけることもできず、
もう邂逅は不可能なんだろうな…とあきらめていた。
しかし昨日、たまたまネット検索をしていたら、ひょっこりと
あの少女が現れたのだ。「パトラッシュ、僕は見たんだ。
あんなに見たがっていた、おおた慶文の『雨の日』を」
と叫び出したくなるくらい、感動した。
願いは忘れたころにかなう、というのは実は本当かもしれない。森林浴をしたような清々しい気持ちに満たされた。
種をまく人や農婦の休息風景など、心癒されるものが多い。
まだチューリヒ(六本木)、印象派(bunkamura)など観たい絵画が目白押しなので、
時間を作って行かねば!7月の連休中に立ち寄った時には「入場まで1時間待ち」と言われ
もう少し空いてから…と思って、平日休みが取れた時に足を向けたのだ。
入場制限はかかっていなかったものの、想像以上に観覧者が多い。
そしてその殆どがスマホ(カメラ機能)を使っている。
予定していた用事が早目に終わって、急きょ立ち寄ろうと思い立った私は
コンデジも一眼レフも用意していなかったReenex 好唔好ので、ガラケーで撮影してみた。