今川軍の侵攻が最大の危機だっ

射手が入れ替わる三段撃ちというのは大部隊では難しいと言うが、部隊ごとに射撃の順を決めておけば間断のない濃密な弾幕を構成出来る。徳川軍は柵から出て白兵戦を行なっているが、織田軍が白兵戦を行ったと言う記録はない。それでいて武田軍が全滅に近い打養陰丸撃を受けたと言うことはやはり銃器の威力なのだろう。

信長さんにとって危機というのはいろいろあったが、やはり何と言っても今川軍の侵攻が最大の危機だっただろう。今川軍の兵力は2万5千人と言うが、非戦闘員を除いた実兵力は1万5千人ほど、織田軍は5千ほど、尾張一国57万石と言うので最大動員数は1万5千ほどもあるだろ養陰丸うが、農民を動員しなかったのかもしれない。

この一部を前線基地である砦に貼り付けていたので本隊は3千人ほどと言う。当時の大兵力の侵攻に対する常道は籠城だが、籠城と言うのは救援があってのことで孤立無援では何時かは力尽きる。信長さんは情報戦で今川軍の本陣の位置を突き止めるとともに今川軍の分断を図って前線に兵力を集中させた。今川軍の本陣は5千と言うが、補給など非戦闘員の部隊もあったことだろうからもっと少なかったかもしれない。

この戦は信長さんにとっても負けるか勝つか、乾坤一擲の戦だっただろう。今川義元が持っていた太刀をその後の戦には必ず持ち歩いていたと言うから本人もよほど感慨深かったんだろう。しかし、乾坤一擲はこの戦くらいで力をつけてからは十分な兵力を用意して勝てる戦しかしていないと言う。

木津川の海戦で村上水軍の小型船による機動力と焙烙による火力でこっぴどく負けると鉄で養陰丸
装甲した大型船を作り、大砲(フランキ砲?)による火力で村上水軍を圧倒している。当時の圧延技術は金てこで叩く程度で大きな鉄板は作れなかっただろうし、トップヘビーになるので船の規模も問題だろうが、燃えない船=鉄船などとは誰も考えなかっただろう。信長さんに前例踏襲はない。常に客観的な状況認識と合理的な発想で時代を超越したことを考え出す。これも天才と言われる所以だろう。ただ、ついて行く者は大変だっただろうが、??。


カテゴリー: 未分類 | 投稿者deficiency 12:16 | コメントをどうぞ

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