ところが、残りのうちの三つが、うんと遅れて芽を出し始めた。
とても同じ時に蒔いたとは思えないこの差。
何故だか自分でもよくわからないけれど、ベランダで食べ物沖咖啡を育てるのはあまり気が乗らない。花が咲いて実がなるのを見るのは楽しいけれど、それだけでいいやと思ってしまうし、あまり大きくならないで欲しい。
だから、もしも食べられないようなトマトがなっても、それはそれでいいとか思っていて、よりよいトマトを作ろうとか、肥料だとかなんだとかに気が回らない。とりあえず、虫が付かなければいいなと思っている。「こんなわ
たしでもミニトマトが育てられた!」という記事は書けるのでありましょうか待て次回。
そう、昨日の記事にいただいたコメント(ありがとうございます)のお返事代わりに書くのだけど、事情が許Nespresso咖啡機す限り、本当にやりたければすぐに行動に移せるのだから、やらないのはきっと何かが足りないとき。それで「今じゃ
なくていい(何かが揃うのを待とう)」になるのかもしれない。
最近で言うと、できたばかりの「短歌倶楽部」に参加したいと思ってすぐに「はてなブログ」を作った。これは自分でも驚くほど素早かった。
以前にも「はてな」の何かに参加たことはあって、その時は「そこまで護肝
して(もうひとつブログを開設してまで)やらなくてもいいやぁー」と流していたのに……である。
「やりたいなあ」という気持ちだけではだめで(面倒くさがりだし)、他の条件(できたばかりのコミュニティーなら参加するのも気楽。主催者が昔からのお知り合いなのも気楽)が揃ったからこそ、「今だ!」とスイッチが入っ
たんだろう。そうそう、某所で川柳をすぐに始めたのも、親しい人の影響あってこそだ。
つまり、コミュニティー参加に関しては特に、そこに誰かがいるとか、逆に知り合いがひとりもいないとか、皆が一斉にスタートする(既に出来上がって成熟している場所に後から入るのは苦手だから)などの「気楽」要素が、
わたしのスイッチオンの鍵になっていそうだ。
とにかく、
風の盆行きがONになるにはまだひとつか二つ、何かが足りていないんだろう。
では、長崎行きはどうだろう。(←突然)
朗読のテキストとして何度も読んだ遠藤周作のエッセイの舞台が、最近読み始めた佐多稲子の「樹影」の舞台でもあって俄然気になりはじめている。「パチン」の条件はなんだろう。それはいつか揃うだろうか。
数日前、新聞を見ていて、旅行の広告に「越中八尾のおわら風の盆」を見つけた。
普段、そういう広告のたぐいには目を留めないけれども、風の盆といえば思い出す『風の盆恋歌』の、その作者である高橋治氏が最近亡くなったことで、意識が傾いていたのかもしれない。
行ってみたいと思ったことは以前にもあったけれど、祭りの時は混雑するだろうし、会場まで遠そうで簡単には行けないと思い込んでいた。でも、ツアーならば大丈夫な気がしてくる。一泊二日、一人旅、一人部屋というコース
もある。逢引する人はいないけれど、「風の盆恋歌」の世界を見てみたい、おわら節の流れる中に身をおいてみたい……としばし広告のページにとどまる。