スタジオジブリ「千と千尋の神隠し」~山口和貴

スタジオジブリ「千と千尋の神隠し」

~宮崎“工房”悪戦苦闘の日々

(2001年1月1日)

◆2001年夏公開 脚本なし 絵コンテも未完成…

日本のアニメーション映画の歴史を塗り替えてきたスタジオジブリ。宮崎駿監督が、2001年夏公開予定の映画「千(せん)と千尋(ちひろ)の神隠し」に取り組んでいる。

10歳の少女が不思議な世界に迷い込む、“宮崎版・不思議の国のアリス”だ。今年最大の話題作に全力を挙げる監督の仕事場を探訪した。

◆自ら追い込む監督「順調に遅れてます」 作画は手がき、5秒のカットに10日以上も

スタジオは、東京都小金井市の住宅街の中。

キャラクターなど目立つものは一切なく、木立に囲まれた静かなたたずまいだ。

ガラス張りのらせん階段を南側に配した明るい造りは、宮崎監督が設計したという。約50人の作画スタッフがいる2階の大きな部屋の一角に、監督の仕事場がある。

「作業は、順調に遅れています」と宮崎監督。

打ち合わせ用テーブルに出したピーナツを時折口に放り込みながら机に向かう。ストップウオッチ片手に時間を計ったり、紙をパラパラとめくって動きを確認したり。

興が乗ってくると、靴を脱いでイスの上にあぐらをかいて、一心に鉛筆を走らせる。

アニメ映画は普通、まず脚本があり、大まかな動きや構図をかいた絵コンテが出来てから一斉に作業に入る。

だが、宮崎作品には、脚本というものがない。いきなり絵コンテからかき始める。そしてたいてい予定は遅れ、絵コンテの仕上がりを待たずに、作業に突入することになる。

今回も完成しておらず、結末はだれにも分からない。

「間に合わないのはいつものこと。宮さん(監督)は大変な状況に自らを追い込み、スリルとサスペンスを感じている。それが作品に影響を与えているんです」とは、鈴木敏夫プロデューサーの弁だ。

映像化の最も基本となるのが、原画作り。絵コンテは出来たものから場面ごとに分けられ、原画マンと呼ばれる作画スタッフに割り振られる。

「作画打ち合わせ」などでの監督の指示が、すなわち「演出」。それに基づいて、動きや表情をかく原画マンが「俳優」の役割を果たす。

今回初めてスタッフになった古屋勝悟さん(30)は、これまで「千年女優」などのアニメを手掛けてきた。

監督は絵コンテを示して、「この人は絶えず何か食べていて、口をこんなふうにもごもごさせて話す」などと身ぶり手ぶりを交えて説明する。

「現場では非常に厳しいと聞いていましたが、思ったより温かい。でもまだ僕の仕事は始まったばかり。作業が進むと大変になるかも」と古屋さん。

原画マンは、登場人物などの見本を参考に、白い紙に鉛筆で粗い線でかいていく。5秒程度のカットでも1人あたり平均1週間もかかる。その一つ一つを監督がチェックし、かき直させたり、自分で修整したりする。

監督のOKが出ると、安藤雅司・作画監督(31)の出番。

原画マンたちの絵を統一し、修整していく。

安藤さんは「要するに、つじつま合わせです」と謙そんするが、全体のトーンを決める、最も大切な役割を担っている。

原画段階でかかれるのは、動きのポイントとなる絵だけ。

粗い線をきれいに直し、動きの間を埋める絵をかくのは動画マンの仕事だ。5秒分で3、4日必要。原画、動画を合わせた作画作業全体で、5秒のカット完成までには、順調にいっても10日間以上。かき直しがあれば20日間かかることもある。

ここまでは白い紙に黒い線だけ。それがコンピューターに取り込まれ、別にかかれた背景などと組み合わされる。後は、紙は全く使わない。すべてコンピューター内で、色付け、デジタル合成などが行われる。

色彩設計の保田道世さんはジブリ草創期からのメンバー。

「宮崎監督は、昔は具体的に『ここはこんな色』『もっと明るく』などと細かく話したけれど、最近は言葉が少なくなりました。『もののけ姫』あたりから違うところに踏み込んだ感じ。わずかな色の違いよりも、もっと大きなイメージが監督の頭の中にあるのではないでしょうか」

2001年夏公開に向け、編集、アテレコ(セリフの吹き込み)、効果音の録音、音楽作りなど、まだまだ大変な作業が続く。

◎「千と千尋の神隠し」ストーリー(あらすじ)◎

主人公の千尋は、現代日本を生きるごく普通のl0才の少女。物語はそんな千尋が父親の運転する車で引越し先の新しい家へ向かう場面からはじまる。千尋たちがいつの間に迷い込んでいたのは「不思議の町」。その町には掟があり、それを知らずに掟を破った両親は、豚になってしまう。途方に暮れる千尋。彼女はひとりでその町で生きていかなくてはならなくなるのだった……。

◆10歳の少女まるごと描く–宮崎駿監督

「思春期や小さな子どもの話は作ったけれど、10歳くらいの女の子の話はちょうどやってなかった」という宮崎監督。「夢のある話、などという、擦り切れた言葉は使いたくない。魔女が支配する不思議な世界で懸命に生きる10歳の普通の少女を、美化せず、まるごと描きたい」と語る。

2001年1月5日にちょうど60歳の誕生日を迎える。年齢を感じさせないが、「来るべきものが僕にも来たということ。これくらいの時間があればもっと出来ているはず、という自分に対する怒りが強い」という。

数多くのヒット作を生み出してきたスタジオジブリ。

自らの記録的ヒット作「もののけ姫」以来の作品で注目を集めている。「安心なんて全くない。常に、失敗したら次はない、と切迫した気持ちで取り組んでいます」と話している。

★スタジオジブリの作品

製作     タイトル         監督

1986年 天空の城ラピュタ        宮崎 駿

1988年 となりのトトロ         宮崎 駿

火垂るの墓           高畑 勲

1989年 魔女の宅急便          宮崎 駿

1991年 おもひでぽろぽろ        高畑 勲

1992年 紅の豚             宮崎 駿

1994年 平成狸合戦ぽんぽこ       高畑 勲

1995年 耳をすませば          近藤喜文

1997年 もののけ姫           宮崎 駿

1999年 ホーホケキョ・となりの山田くん 高畑 勲

山口和貴

参考:http://www.jcom-tokyo.info/

カテゴリー: ジブリ | 投稿者55kokokara 14:20 | コメントをどうぞ

1990年代のジブリのスタジオ~山口和貴

ジブリのアニメ映画「平成狸(たぬき)合戦ぽんぽこ」=高畑勲監督=は全国で350万人が映画館に足を運んだ。1992年7月公開の「紅の豚」=宮崎駿監督=の400万人(観客数はいずれも東宝営業部による)に迫った。「スタジオジブリ」(小金井市)は、1990年代、高畑、宮崎両監督による人気作品を次々と送り出し、夢の工房として知られるようになった。1994年9月、まだ学生だった私は、研究の一環として、他の学生と共に、このスタジオを訪問させていただく機会をいただいた。当時の日記ルポを紹介させていただきます。(山口和貴)

 

◇スタッフ100人自由でかっ達

 

<スタジオ>

 

JR東小金井駅に近い、畑交じりの住宅地の一角に、ガラス窓の多い白い三階建てのスタジオがある。1992年、手狭になった創業の地、吉祥寺の東急デパート裏の貸しビルから移ってきた。中央線沿線でとにかく安い土地、が不動産業者に頼んだ条件だったそうだ。高圧線の鉄塔のすぐそばで、周囲よりも安い土地だという。

 

一階。十人ほどの若い女性たちが、机に向かって黙々とセル(透明な樹脂板)に彩色している。ここはセルの仕上げの場所。別の部屋にはセルを背景に重ねてフィルムで撮る撮影機械がある。2階が作画室。四、五十人が働く。むんむんと熱気がこもる。ついたてで仕切られた「準備室」では、昼寝ぐせが付いているという宮崎さんがソファを持ち込み、縫いぐるみのトトロと横になっていたりする。3階は背景を描く美術の仕事場だ。一階から合わせ全部で約百人が働く。

 

建物は宮崎さんがデザインした。「権威主義的な建物にはしたくない」と社長室はない。それまで一作ごとにアニメーターらを集めるプロジェクト方式だったのを、九一年に社員化し、新人の定期採用も始めた。年一回、徳間康快社長=徳間書店社長=が新入社員にあいさつに来るが、中二階の会議室兼試写室兼図書室ぐらいしか身の置き所がない。

 

<2人の監督>

 

ジブリは、徳間書店グループが75%出資して作ったアニメーション制作会社。登記上の設立は1985年6月だが、実質的な創業は、高畑さんがプロデュースし宮崎さんが監督した「風の谷のナウシカ」が出た1984年になる。

 

高畑さんと宮崎さんは、「東洋のディズニー」を目指して設立された東映動画の先輩、後輩社員として1963年に出会い、1968年の「太陽の王子・ホルスの大冒険」で初めて、共同で映画を作った。1971年に一緒に退社し、「アルプスの少女ハイジ」(七四年)などテレビ用アニメのシリーズをコンビで作る。

 

宮崎さんはその後、徳間書店の雑誌「アニメージュ」編集長だった現製作部長、鈴木敏夫さんとともに、ジブリの設立にかかわり、現在は取締役として企画の全権と責任を持つ。しかし、高畑さんはジブリの設立には加わらず、「顧問」として契約で映画作りに参画するスタイルを選ぶ。ハイジなどのシリーズを通して、お互いの制作への考え方の違いがはっきりしたためだという。

 

「高畑が監督し、宮崎が絵を書くというコンビだったのが、『ナウシカ』で宮崎が監督として独り立ちしてからは、片方がプロデューサーや企画、片方が監督という別のスタイルのコンビが出来上がった。二人は友人だがライバルです」と鈴木さん。この二人の微妙な緊張関係が、作品作りに影響を与えている。

http://www.jcom-tokyo.info/

 

 

 

カテゴリー: ジブリ | 投稿者55kokokara 15:37 | コメントをどうぞ