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1990年代のジブリのスタジオ~山口和貴

ジブリのアニメ映画「平成狸(たぬき)合戦ぽんぽこ」=高畑勲監督=は全国で350万人が映画館に足を運んだ。1992年7月公開の「紅の豚」=宮崎駿監督=の400万人(観客数はいずれも東宝営業部による)に迫った。「スタジオジブリ」(小金井市)は、1990年代、高畑、宮崎両監督による人気作品を次々と送り出し、夢の工房として知られるようになった。1994年9月、まだ学生だった私は、研究の一環として、他の学生と共に、このスタジオを訪問させていただく機会をいただいた。当時の日記ルポを紹介させていただきます。(山口和貴)

 

◇スタッフ100人自由でかっ達

 

<スタジオ>

 

JR東小金井駅に近い、畑交じりの住宅地の一角に、ガラス窓の多い白い三階建てのスタジオがある。1992年、手狭になった創業の地、吉祥寺の東急デパート裏の貸しビルから移ってきた。中央線沿線でとにかく安い土地、が不動産業者に頼んだ条件だったそうだ。高圧線の鉄塔のすぐそばで、周囲よりも安い土地だという。

 

一階。十人ほどの若い女性たちが、机に向かって黙々とセル(透明な樹脂板)に彩色している。ここはセルの仕上げの場所。別の部屋にはセルを背景に重ねてフィルムで撮る撮影機械がある。2階が作画室。四、五十人が働く。むんむんと熱気がこもる。ついたてで仕切られた「準備室」では、昼寝ぐせが付いているという宮崎さんがソファを持ち込み、縫いぐるみのトトロと横になっていたりする。3階は背景を描く美術の仕事場だ。一階から合わせ全部で約百人が働く。

 

建物は宮崎さんがデザインした。「権威主義的な建物にはしたくない」と社長室はない。それまで一作ごとにアニメーターらを集めるプロジェクト方式だったのを、九一年に社員化し、新人の定期採用も始めた。年一回、徳間康快社長=徳間書店社長=が新入社員にあいさつに来るが、中二階の会議室兼試写室兼図書室ぐらいしか身の置き所がない。

 

<2人の監督>

 

ジブリは、徳間書店グループが75%出資して作ったアニメーション制作会社。登記上の設立は1985年6月だが、実質的な創業は、高畑さんがプロデュースし宮崎さんが監督した「風の谷のナウシカ」が出た1984年になる。

 

高畑さんと宮崎さんは、「東洋のディズニー」を目指して設立された東映動画の先輩、後輩社員として1963年に出会い、1968年の「太陽の王子・ホルスの大冒険」で初めて、共同で映画を作った。1971年に一緒に退社し、「アルプスの少女ハイジ」(七四年)などテレビ用アニメのシリーズをコンビで作る。

 

宮崎さんはその後、徳間書店の雑誌「アニメージュ」編集長だった現製作部長、鈴木敏夫さんとともに、ジブリの設立にかかわり、現在は取締役として企画の全権と責任を持つ。しかし、高畑さんはジブリの設立には加わらず、「顧問」として契約で映画作りに参画するスタイルを選ぶ。ハイジなどのシリーズを通して、お互いの制作への考え方の違いがはっきりしたためだという。

 

「高畑が監督し、宮崎が絵を書くというコンビだったのが、『ナウシカ』で宮崎が監督として独り立ちしてからは、片方がプロデューサーや企画、片方が監督という別のスタイルのコンビが出来上がった。二人は友人だがライバルです」と鈴木さん。この二人の微妙な緊張関係が、作品作りに影響を与えている。

http://www.jcom-tokyo.info/

 

 

 

カテゴリー: ジブリ | 投稿者55kokokara 15:37 | コメントをどうぞ