月別アーカイブ: 2016年9月

実りの季節

いや、ほんと秋ですね。

ここ数日は暑さが戻っていますが、

それでもやっぱり秋ですね。
ふらふらと歩いているだけで
秋らしさが向こうからやって来てくれますAmway安利

たとえば、これ。

カラスウリでしょうかね。
ブロック塀を背景にしてるところが
素敵ですね。なんか、逞しさを感じます。

アップにすると、こんな感じ。

まだ熟しきってはいないようです。
真っ赤になるんですよね。
で、カラスが食べにくる――と思いきや、
あまりカラス氏のお好みではないそうです。

では、つぎのお写真を安利

これは、発見したとき
すこしギョッとしました。

大鳥神社の敷地内にあったんです。
かなり不気味ですね。
キノコ好きの僕でも引きます。

横から見ると、こんな感じ。

ぴったりとくっついて、
押し合いへし合いしています。
まあまあは広いんだから
違う場所に生えればよかったものを――
と思いますが、まあ、
彼らはこうしたかったのでしょう。

もしくは、

自分たちもまさかここまで
大きくなれると思っていなかったのかも
しれませんAmway安利

ところで、
この巨大キノコ(直径およそ20センチほど)を
見かけたのは1週間前くらいだったのですが、
その後どうなったのか探りに行くと、
いなくなってました。

さらに巨大化しているのを期待していたので
がっかりです。
――と、思っていたら、
違う木の根元に、
新たなるキノコを発見してしまいました。

一本立ちの子や、

ぎゅうぎゅうになっている子たち。

ほんと、秋は実りの季節ですね。
夏のあいだに溜まっていったエネルギーが
この時期に一気に放出されるのでしょう。
僕たちが手をくわえなくても
自然というのはかくこのように
命を繋いでいるわけです。

いや、しかし、
そう考えると、すごくないですか?
いくら人間が尊大にかまえていても
それとは関わりなく、自然は粛々と
その営みをつづけているのです。

人間がこの世界をコントロールしてる
つもりになっていても、実のところ、
自然の大きな手のうちで遊ばされているだけに
思えます。僕たちの思惑とは関係無く
季節は巡り、実はなり、キノコは生え伸びる
わけです。そう思うと、不気味な巨大キノコも
カラスウリも愛おしくなります。

とはいえ、食べる気にはなれませんけど。

カテゴリー: 未分類 | 投稿者ringson 17:36 | コメントをどうぞ

昨夜も、眠れず。。。。

 咳、痰で息苦しくなる状態は、改善できず、昨夜も何度も目が覚めた。

 睡眠不足がたたって、頭痛がする。取れるまでおとなしくしていたら、昼までかかった。

 雨、降りそうで、降らず。油断していると、ざっと降る海外 報奨旅行

 3連休の最終日。休みだけど、暢気に休む気にもなれない。きっと明日は、今日の分も込みで、2日分の仕事をやっつけなきゃいけない気がする。

 だから時間を区切って、限定で仕事する。時間を区切らないと、ずるずる仕事に巻き込まれそうな気がする。

 出かけたくなる天気でもなく、湿気がきつくて、じんわり汗が出る海外 買い物

 目を使うと、異常に消耗する。特にここ最近。だから、パソコンもテレビも、1時間見たら、必ず休憩を入れる。休日のお約束。疲れを持ち越すことはできないし。

 気分転換に、少し寝たあと、ラジオを聞く。FMもいいけど、AMで野球中継をぼんやり聞くのも、頭を使わなくて、いい。

 夕方、買い物に出ようとしたら、雨がぱらついてきた。風が弱くて、蒸す。

 台風がどうとか、前線がこうとかいっていたような気がする。現在の気圧、若干低め。自分の感覚だけど香港 食事

 明日は、忙しいだろう、なあ。。。。
 

カテゴリー: 未分類 | 投稿者ringson 12:34 | コメントをどうぞ

少年少女時代の人間関係は一生を左右する

有名人だから、ネット関係とは言え、実名を述べても構わないだろう。8月初め、フェイスブックで原一男氏と再会し、厚かましい事を承知の上で、友人リクエストを出した。OKしてくれた。嬉しかった。読者向けに述べるが、日本を代表する映画監督の原一男氏である。実は、1967年から68年、僕は原一男氏と付き合いがあった。当時の僕は光明養護学校の小学6年から中学1年だったが、駆け出しのカメラマンだった原一男氏は光明養護学校に時々来て,児童,生徒の姿の写真を撮りまくり、写真展を行なった。又、僕の家にも介護バイトに来てくれた事もあるGPS手錶

「山本五十六」と言う第二世界大戦の日本軍人の映画を見に行った思い出もある。懐かしい。

その原一男氏の事から、中学?高校時代に僕に関わってくれたサポーターたちの事を色々と思い出した。教師志望の無教会信仰を持つ学生もいたし、比較的近くの大学に通う大学生もいた。彼らは本当に多くの事を僕に教えてくれた。身を持って「他人への関わりの大切さ」を教えてくれた人もいた。法律の大切さも教えてくれたし、「口先だけ達者な人は当てにならない」とか、「恋愛感情など、感情に走るとろくな事はない」と教えてくれた人もいた。高校時代には、僕が苦手だった英語や古文も教えてくれた。僕も、サポーターたちも楽しかった。厳しい事も言われたが、気が付かない内に、世代が異なる人たちと付き合う訓練にも僕はなった。それは後年は子供会活動や、はるか年長のハンセン氏病後遺症を持つ伊藤まつさんというおばあさんとの付き合いに結びつき、更には、やはり、今の、僕とは年代が離れた人達が多い、ヘルパーさんたちとの関わり合いにも役立っている。昔は気が付かなかったが、かけがいのない経験である帝國金業交易

少年少女時代、学校しか付き合いがなかった人たちは卒業後も同年代の人たちしか付き合えない例が多い。「3年、年齢が離れると付き合えない」と言った人もいたのを覚えているし。昔は日本でも世代の別なく、多くの人たちが関わり合ったようだが、戦後になり、マイ?ホーム主義になり、子供たちは学校しか社会的な場がない例も増えたため、そのような人も出てきたようである。自分の経験と照らし合わせて、尚更、少年少女時代の人間関係の大切さを思うわけである。

因みに、8月になり、僕はブログを書く回数が減ったが、理由はオリンピック観戦に忙しかった事と、原一男氏との再会をきっかけに中学?高校時代の事を深く振り返っていたためである。元気には違いなかったがbotox 收鼻翼

カテゴリー: 未分類 | 投稿者ringson 18:32 | コメントをどうぞ

ミソロゴスとピロロゴス

私たち日本人の感性は非常に敏感だから、言葉に傷つき言葉を不信しがちである。

「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」といふ詩を詠んだ詩人(田村隆一「帰途」)の思ひなどまつたく分からないと言へる日本人がさうたくさんゐるとは思へない蟲草Cs4

何か話せば、こんなはずぢあなかつた、何か言ひ訳をすれば、さう言ひたいのではなかつた、といふ思ひになつたことの一度や二度は誰にでもあるだらう。主体性の弱さゆゑに、言葉との距離をうまく取れずに、言葉につかまり、言葉に引きずられ、言葉を使つてゐるやうに思ひながら、言葉に使はれてゐる。さういふ経験をしてきたはずだ。

さういふとき、「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」とつぶやきたくなるのである蟲草Cs4

それをプラトンは、「ミソロゴス」と名付けた。なるほど古代ギリシャの人々もまた言葉との距離の取り方に苦しんだのである。訳せば「言葉嫌ひ」といふことである。対話編『ラケス』に出てくる言葉である。

しかし、世には言葉を道具として使ひ、自分との距離感を放棄して、自由自在に扱ふことのできるものとして言葉を考へてゐる人もゐる。さういふ人は「ピロロゴス」(言葉好き)である。平和と唱へれば、平和が訪れると思ひ、「いじめはいけない」と叫べばいじめはなくなると思つてゐる。まさに「平和」な人である。さういふピロロゴスが厄介なのではないか。自己不信にまで至るミソロゴスも扱ひにくいが、自己過信=理想主義=美辞麗句大好きのピロロゴスは性質(タチ)が悪い。自分自身だけの問題ではなく、周囲を危険と不幸に陥れる可能性を持つてゐる蟲草Cs4

言葉の学習といふものの目標も、最終的には言葉と自己との距離をどう取るかといふことに行きつく。それが近代人としての作法であらう。

「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」と書いた詩人田村隆一は、それでも詩を書き続けた。その生き方こそ、近代人の作法だと思ふのである。

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