ミソロゴスとピロロゴス

私たち日本人の感性は非常に敏感だから、言葉に傷つき言葉を不信しがちである。

「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」といふ詩を詠んだ詩人(田村隆一「帰途」)の思ひなどまつたく分からないと言へる日本人がさうたくさんゐるとは思へない蟲草Cs4

何か話せば、こんなはずぢあなかつた、何か言ひ訳をすれば、さう言ひたいのではなかつた、といふ思ひになつたことの一度や二度は誰にでもあるだらう。主体性の弱さゆゑに、言葉との距離をうまく取れずに、言葉につかまり、言葉に引きずられ、言葉を使つてゐるやうに思ひながら、言葉に使はれてゐる。さういふ経験をしてきたはずだ。

さういふとき、「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」とつぶやきたくなるのである蟲草Cs4

それをプラトンは、「ミソロゴス」と名付けた。なるほど古代ギリシャの人々もまた言葉との距離の取り方に苦しんだのである。訳せば「言葉嫌ひ」といふことである。対話編『ラケス』に出てくる言葉である。

しかし、世には言葉を道具として使ひ、自分との距離感を放棄して、自由自在に扱ふことのできるものとして言葉を考へてゐる人もゐる。さういふ人は「ピロロゴス」(言葉好き)である。平和と唱へれば、平和が訪れると思ひ、「いじめはいけない」と叫べばいじめはなくなると思つてゐる。まさに「平和」な人である。さういふピロロゴスが厄介なのではないか。自己不信にまで至るミソロゴスも扱ひにくいが、自己過信=理想主義=美辞麗句大好きのピロロゴスは性質(タチ)が悪い。自分自身だけの問題ではなく、周囲を危険と不幸に陥れる可能性を持つてゐる蟲草Cs4

言葉の学習といふものの目標も、最終的には言葉と自己との距離をどう取るかといふことに行きつく。それが近代人としての作法であらう。

「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」と書いた詩人田村隆一は、それでも詩を書き続けた。その生き方こそ、近代人の作法だと思ふのである。


カテゴリー: 未分類 | 投稿者ringson 14:43 | コメントをどうぞ

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