日別アーカイブ: 2017年5月4日

煩悩が邪魔して、美しくなれない

はじめて訪れた、とあるブログ。
涙が頬を伝った。
わたしは、こういう路線に弱い。涙腺、大全開。

幼い頃の家族の光景が書かれていた。
今は亡き、ご両親と、妹さん。
お父さんの服装、いでたちがノスタルジックな風情を醸し出していたdermes 價錢

ちなみに、今、3歳になる、口のよく回る、記憶力抜群の我が孫。
(記憶細胞が毎日どんどん死んでいく、にぶいアタマのわたしから見ると)
彼が1歳前後の頃、まじっと彼の顔を真近で見て、なんと純粋な顔だろう???と涙が出た。
まざりっけのない、自然の彼は、知恵もなにもついていない。
かわいい、を通り越して、美しいと思った。

人は成長していくにつれ、自分を守る技を身につける。
身につけなければ、生きていけない。
その手助けをしてやるのが、親の役目でもある。
そんな教科書に書いてあるようなことは、十分わかっているが、
純粋なものは心惹かれ、吸い込まれそうになる。
それだけ自分のこころが濁っているのかも知れない。

純粋な彼の目に映るわたしは、どんなものなのだろう。

彼の目には、わたしが映っていた。
鏡を見るように、そこには、わたしの顔があった休閒椅
わたし自身が投影された姿だ。
だが、彼の目は鏡ではない。
彼自身が持つ目だ。

1歳では、彼の記憶にはまったく残っていない。
だから美しいのか。
理屈付けできない、わたしがいる。

さて、前述の、そのブロガーさんが幼い頃のシーン。
ご自分で覚えておられるので、1歳やそこらではないはずだ。
わたしも、祖父のお葬式の1コマをはっきりと鮮明に覚えている。
命日から計算すると、当時のわたしは3歳6ヶ月である。
現在、上の孫は3歳1ヶ月だが、似たような年齢だ。

祖父が亡くなる以前の様子もしっかり覚えている。
亡くなる直前などではなく、もっとゆるやかな時間が流れている頃だったと思う。
話したり、受け答えや、やりとりした記憶がある。
よく、祖父の臥している部屋に行って、お菓子をもらっていた。
祖父は、わたしが行くと、新しくお菓子の袋の封を切ってくれた。

ということは、現在の上孫の年齢の頃には、
わたしという人物は、もうすでに彼の記憶の箱に仕舞われているということだ。

幼い頃の田舎での風景、光景、今も目に浮かぶ。
蝶ブログにも何度も書いている。懐古趣味か香港矯視中心
何度か、大改造はされているが、ベースは同じ。
現在もなお、全く同じところに、同じものが、同じようにあるので、とても不思議なような、
過去?現在?未来をタイムライン号の船に乗って見るかのごとく。

玄関脇にある庭石。
この陰に隠れて、かくれんぼをよくした。
あんな小さな隙間によく身を隠せるなあと、いつも不思議な気持ちで見ている。
当時のわたしは、猫だったのか?

祖母が日常に使っていたお針箱。
その近くに、わたしの幼稚園時代の道具箱が置かれている。
旧姓フルネームで、わたしの名前が書かれているが、去年、発見して、よくまあ、あんなもの、まだ置いているなあと、びっくりした。
目をぱちくりと瞬きする瞬間に、ひとっとび半世紀前の時代にタイムスリップ。
ふたつ瞬きすると、百年前。
セピア色の残像が、NHK番組のファミリーヒストリーのようだ。

今も、私が子供の頃と同じ場所に、ツバメが巣を作っている。

???と、延々、残像シリーズは、きりがない。

話を戻そう。
そのお邪魔したブログには、クラシックの名曲が流れている。
いいなあ???。こころが洗われるようだ。
現在、抱えているわたしの悩みの解決の糸口にならないかと、記事タイトルをあちこちクリックして、
過去の偉人たちの名言を読んでみる。
現世の生煮えなわたしには、まだ、ちょっとすんなり取り入れるには、ハードルが高い。
煩悩がイキイキ。もやもやを通り越して、現役で暴れている。

あと十年は経たないと、しっかり枯れて、いい味が出ないような気がする。
じっくり寝かせて「熟成」などというと聞こえはいいが、
悟りなど、一生、開けないだろう。生きている限り。

カテゴリー: 未分類 | 投稿者ringson 13:18 | コメントをどうぞ