月別アーカイブ: 2016年8月

能力があるということは

スゴイことであって、憧れたり頑張ったりしても、
器というものがある。
一見スゴイ人は、実はその下に、幾層もの積み重ねられたスゴイものがあって、
最後のページがスゴ去黑眼圈イだけに見えても、中身はすべて、年月とエネルギーと才能の連続の結果だ。

見えるところだけに結果や価値を求めるには、見えないところは、その何百倍も濃厚に詰まっている。
夢の中で、そう感じるコマがいくつかあった。
だが、どのシーンでそう感じたのかよくわからない。

社交ダンスで、自分が打ちのめされたのは、薄っぺらなペラペラの自分だったからだろう。
結果を出している人と、結果を出していない人が、同じ場所に混在しているから、
自分もそうなのかと見誤ってしまうのだろう。

しかし、夢の中でのシーン倫敦金は社交ダンスでなく、整ったおうち。
家は、なにもハード面の建築物である住宅houseだけを指すのではない。
家庭、家族、、、消滅に向かう家制度のイエ、、、
象徴的に、娘の家、孫、わたしの家を無意識下に土台にしているように推測する。
もうすぐお盆だから、義母は指揮官退任でも、ちゃんとやってね、という、先祖からのメッセージか。
それにしても、夢が、社交ダンスと、ごっちゃになっている。

夢診断。
後付けの、こじつけ理屈付け解釈、解明輪證、解説である。

カテゴリー: 未分類 | 投稿者sallyyuew 03:30 | コメントをどうぞ

現在は玉山と呼ばれている

ニイタカヤマノボレ・・・知らない人も多くなったかもしれない。真珠湾攻撃の暗号文だ。新高山は、当時日本だった台湾にある山の名前。
標高3,952m。3,776mの富士山整形美容よりも高い。
台湾が日本領になって、富士山よりも高い新しい日本の最高峰という意味で新高山と名付けられたとwikiにはある。
清朝には八通関山。

新高梨の名前の由来については、wikiには神奈川県園芸試験場桃李会の10周年記念誌を引用して、優れた品種であったことから当時日本最高峰の名を用いたとある。
通説は、新潟県の天の川と高知県の今村秋の二つの品種をかけ合わせてできた交雑種で、それぞれの県名を一字ずつもらって新高にしたということになっている。
真実はよくわからない。そんなものだ。

さて、太秋柿と津軽りんごでジャムを作るのにフードプロセッサを使って味をしめたので、今回もフードプロセッサを使って梨ジャムを作ることにしてみた。
フードプロセッサにかければ果汁が多く出るのが予想された。繊維質が多いので、細断された分、煮詰めの時間は早く済むはずだ。

で、予想通りに事が運ん掉頭髮原因だが、何かが変。
包丁で刻んだ時よりも水分が多く、なかなか煮詰まらない。
色を見ると果肉は十分に煮込まれたので、ペクチンを足して粘り気を補強することにする。
火を止めて瓶に詰め終わることになると、やはり変。
予想よりも出来上がりの量が少なかった。

フードプロセッサにかけて、水分が出過ぎ、蒸発量が多くなったに違いない。
包丁で刻んだ場合は、煮込んでも小さな実の塊の中に水分が残るのが、フードプロセッサで砕かれてその水分も外に出てしまったのか?
・・・などと理屈を考えてみたが、新高引伸波幅の由来同様、真実はよくわからないのだった。

カテゴリー: 未分類 | 投稿者sallyyuew 17:25 | コメントをどうぞ

改めてWEB大辞泉を調べてみると

「天皇のすむ所。特に、明治21年旧江戸城を宮城と称してから、昭和21年までの皇居の称」と書かれている。
 戦前、戦中派の人たちはこの黃斑部病變言葉に親しんでいる。終戦時のニュースフィルムなどを見ていると、「宮城の前には人々が集まり・・・」といったナレーションが流れるのを聞いたことがあるかもしれない。

 宮内庁のホームページの説明は辞書とは若干違っていて、「徳川幕府の居城(江戸城)であったものが、明治元年に皇居となり、明治21年以来、宮城と称されていましたが、昭和23年、宮城の名称が廃止されて、皇居と呼ばれるようになりました」とある。

 明治21年から昭和21年までなのか、それとも23年までなのか・・・まあ、大した違いではない。
 皇居が宮城と呼ばれるようになったのは、明治21年10月27日の宮内省告示第6号「皇居御造営落成ニ付自今宮城ト称セラル件」が根拠になっている。
 同様に呼称の廃止は、昭和23年7月1日の宮内府告示第13号「皇居を宮城と称する告示廃止」が根拠で、これによるとWEB大辞泉の説明は誤りということになる。

 細かい違いだが一応気になったので糖尿眼広辞苑を見たが、廃止の年号については書かれていなかった。WEB大辞泉の誤記かもしれない。

 地図で確かめてみると、昭和22年のものには宮城と書かれ、昭和25年のものには皇居と書かれているので昭和23年を区切りに変更されたといえるかもしれないが、確証はない。

 江戸期から明治期の地図上での表記の変遷をたどっていくと、江戸期には江戸城は御城と書かれていて、江戸時代の地誌『江戸砂子』や『江戸志』、幕府編纂の『御府内備考』等にも御城と書かれていることから、御城と呼ばれていたことがわかる。

 江戸城については、『御府内備考』に、「甲陽軍鑑に中武蔵江戸の城とあり、又右文書に江戸中城或は江城と書しものあり。又落穂集に御入國以前まで千代田が城と唱へしといひ、泰政録には元平河城と称せし由、記せり」とあり、いくつかの呼び名があった。

 江戸中期の『落穂集』には、江戸に城を築こうと候補地を探していた太田道灌が、千代まで長く栄える名だと千代田村に城を築くことに決めたことから、千代田が城と呼ばれるようになったと書かれている。
 太田道灌が霊夢によって江戸城を築いたことは室町時代の軍記『永享記』にあるが、「武州荏原郡品川の館に居住したりしが、霊夢告ありとて、同國豊島郡江戸の館に移り給ふ。優れたる名地にて、山なしと雖(いえど)も、四邊(辺)を見下し、入海あり、諸国往還の便を為す。誠に目出度所なればとて、此城を靜勝軒と號(号)す」と書かれていて、地の利についての説明はあるが千代田には触れられていない。

 なお『落穂集』と同時期の『江戸砂子』には、『永享記』と『落穂集』を併せた記述があるが、千代田の由来についてはよくわかっていない。
 江戸初期の『泰政録』にある平河は現在の神田川の古名で、家近視控制康入府以前は江戸城に面した日比谷入江に注いでいた。

カテゴリー: 未分類 | 投稿者sallyyuew 16:30 | コメントをどうぞ