「天皇のすむ所。特に、明治21年旧江戸城を宮城と称してから、昭和21年までの皇居の称」と書かれている。
戦前、戦中派の人たちはこの黃斑部病變言葉に親しんでいる。終戦時のニュースフィルムなどを見ていると、「宮城の前には人々が集まり・・・」といったナレーションが流れるのを聞いたことがあるかもしれない。
宮内庁のホームページの説明は辞書とは若干違っていて、「徳川幕府の居城(江戸城)であったものが、明治元年に皇居となり、明治21年以来、宮城と称されていましたが、昭和23年、宮城の名称が廃止されて、皇居と呼ばれるようになりました」とある。
明治21年から昭和21年までなのか、それとも23年までなのか・・・まあ、大した違いではない。
皇居が宮城と呼ばれるようになったのは、明治21年10月27日の宮内省告示第6号「皇居御造営落成ニ付自今宮城ト称セラル件」が根拠になっている。
同様に呼称の廃止は、昭和23年7月1日の宮内府告示第13号「皇居を宮城と称する告示廃止」が根拠で、これによるとWEB大辞泉の説明は誤りということになる。
細かい違いだが一応気になったので糖尿眼広辞苑を見たが、廃止の年号については書かれていなかった。WEB大辞泉の誤記かもしれない。
地図で確かめてみると、昭和22年のものには宮城と書かれ、昭和25年のものには皇居と書かれているので昭和23年を区切りに変更されたといえるかもしれないが、確証はない。
江戸期から明治期の地図上での表記の変遷をたどっていくと、江戸期には江戸城は御城と書かれていて、江戸時代の地誌『江戸砂子』や『江戸志』、幕府編纂の『御府内備考』等にも御城と書かれていることから、御城と呼ばれていたことがわかる。
江戸城については、『御府内備考』に、「甲陽軍鑑に中武蔵江戸の城とあり、又右文書に江戸中城或は江城と書しものあり。又落穂集に御入國以前まで千代田が城と唱へしといひ、泰政録には元平河城と称せし由、記せり」とあり、いくつかの呼び名があった。
江戸中期の『落穂集』には、江戸に城を築こうと候補地を探していた太田道灌が、千代まで長く栄える名だと千代田村に城を築くことに決めたことから、千代田が城と呼ばれるようになったと書かれている。
太田道灌が霊夢によって江戸城を築いたことは室町時代の軍記『永享記』にあるが、「武州荏原郡品川の館に居住したりしが、霊夢告ありとて、同國豊島郡江戸の館に移り給ふ。優れたる名地にて、山なしと雖(いえど)も、四邊(辺)を見下し、入海あり、諸国往還の便を為す。誠に目出度所なればとて、此城を靜勝軒と號(号)す」と書かれていて、地の利についての説明はあるが千代田には触れられていない。
なお『落穂集』と同時期の『江戸砂子』には、『永享記』と『落穂集』を併せた記述があるが、千代田の由来についてはよくわかっていない。
江戸初期の『泰政録』にある平河は現在の神田川の古名で、家近視控制康入府以前は江戸城に面した日比谷入江に注いでいた。