潮の引いた跡をいくつか試掘して

さて、今回の潮干狩り。途中、二度も事故渋滞にぶつかり、自然渋滞もあって予定よりも40分遅れで潮干狩り場に到着した。
ここに若干の誤算を生じた。大潮だったために、浜に出てみるとすっかり潮が引いていた・・・

例年なら、潮が引き始めるとと物業二按もに浜に出る。そして海に入って、潮の引く流れを追って足で砂の中をまさぐる。水に浸かった砂は柔らかいのでハマグリを見つけやすい。
ところが今回、すでに潮が引いた後だったので、ハマグリが採れる場所は陸になっている。固い砂を掘るしかなかった。

最初のハマグリを見つける。次に周辺を掘る。するとハマグリベルトが見つかる。
ハマグリベルトというのは俺の造語・・・

バナナベルトというのがある。北緯30度から南緯30度にかけての熱帯・亜熱帯のバナナ生産地域をいう。ベルト(belt)はこの場合、帯状の地域を意味する。
つまりハマグリベルトは、潮干狩り場に伸びるハマグリ生息地域。ベルトというほど大袈裟じゃないか・・・
じゃあ、ハマグリスポット。スポット(spot)は点だな。急にみみっちくなっちまった。

ハマグリを採っていたら、「今年はアサリを採りましょうよ」と連れ合いが言った。
アサリはどこを掘っても大抵見つかるが、大きなアサリを見つけるのは意外と難しい。
一方のハマグリはコツを覚え正面的生活態度ると、こちらの方が簡単に採れるように思えてくる。もちろん、潮干狩り場で稚貝を大量に撒いているからなのだが・・・

「おっ、またハマグリ・・・なかなか大きなアサリに当たらないなぁ」
「ハマグリ、もう十分採ったから、大きなアサリを探してよ」
「そうか・・・大きなアサリを採るのが、潮干狩りの本当のプロってことか・・・」

掘る、掘る、掘る・・・砂を掘る。疲れた・・・
あちこちに蟻塚のような砂山が出来る。
やっぱ、大潮はつらいよ・・・来年は中潮にしよう・・・

さて、収穫したアサリは炊き込み御飯、ハマグリは焼いて食べることにした。
連れ合いの見立てだと、ハマグリはざっと120個以上はあるんじゃないかという。
「スーパーで6個580円で売ってたから、12000円弱ってとこか? ガソリン代、高速代、入漁料で大体同じくらいの金額だな・・・なんだスーパーで買っても大して変わらんな」
貧乏人の悪い癖で、すぐに損得勘定をする。
「アサリの分を入れれば、やっぱり得よ。それにレジャーなんだし・・・」

「いいじゃない。一人10個以上は焼きハマグリ食べてるんだから・・・」
山積みになった貝殻を前に、子供が言う。
「そうだな。こんな贅沢な食事なんて、潮干狩りでもしなきゃ出来ないもんな。これが、庶民の贅沢ってもんじゃねぇか?」
炊き込み御飯の鍋底のお焦げをガリガリと剥がしながら言った。

「お焦げ好き?」
「好きだよ」
「あのね・・・石橋凌が言ってたよ。お焦げが好きなうちは金持ちにはなれないって・・・」
「・・・石橋凌が?」
「ドラマだよ、『お金がない!』っていう。織田裕二に言うんだ、おまえ、お焦げ好きかって」
「・・・金持ちになれなくてもいいよ。俺はお焦げが食べたい」

さて、前回「白米を食べさせたい─堕落して夢ごこち」でこんなことを書いた。

──某有名日本料理屋で出てきた米が美味しかった。マリナーズのイチロー選手も毎日食べているという高級米だった。イチロー選手とはまったく比較にならない貧乏人のこの俺が、通販でこの米を買った。美味しい。
しかし、俺は考えた。たまに美味しい米を食べるから感激するのであって、普段から美味しい米ばかり食べていたら何の有難味もない。精神は堕落し、家計は崩壊する。

庶民には庶民の贅沢がある。
金持ちがミシュランを片手に食べ歩きをするならば、ラーメン屋巡りでB級グルメを気取るのが庶民というものじゃないか。
実益を兼ねたレジャー潮干狩りで、収穫したハマグ預見更好的自己リを腹いっぱい食べる。こんな贅沢な気分、金持ちには味わえねぇぞ・・・と力一杯、鍋底のお焦げを剥がす。

「あら、鍋すっかりきれいになったわね。洗うの楽だわ・・・」

カテゴリー: 未分類 | 投稿者sallyyuew 17:01 | コメントをどうぞ

能力があるということは

スゴイことであって、憧れたり頑張ったりしても、
器というものがある。
一見スゴイ人は、実はその下に、幾層もの積み重ねられたスゴイものがあって、
最後のページがスゴ去黑眼圈イだけに見えても、中身はすべて、年月とエネルギーと才能の連続の結果だ。

見えるところだけに結果や価値を求めるには、見えないところは、その何百倍も濃厚に詰まっている。
夢の中で、そう感じるコマがいくつかあった。
だが、どのシーンでそう感じたのかよくわからない。

社交ダンスで、自分が打ちのめされたのは、薄っぺらなペラペラの自分だったからだろう。
結果を出している人と、結果を出していない人が、同じ場所に混在しているから、
自分もそうなのかと見誤ってしまうのだろう。

しかし、夢の中でのシーン倫敦金は社交ダンスでなく、整ったおうち。
家は、なにもハード面の建築物である住宅houseだけを指すのではない。
家庭、家族、、、消滅に向かう家制度のイエ、、、
象徴的に、娘の家、孫、わたしの家を無意識下に土台にしているように推測する。
もうすぐお盆だから、義母は指揮官退任でも、ちゃんとやってね、という、先祖からのメッセージか。
それにしても、夢が、社交ダンスと、ごっちゃになっている。

夢診断。
後付けの、こじつけ理屈付け解釈、解明輪證、解説である。

カテゴリー: 未分類 | 投稿者sallyyuew 03:30 | コメントをどうぞ

現在は玉山と呼ばれている

ニイタカヤマノボレ・・・知らない人も多くなったかもしれない。真珠湾攻撃の暗号文だ。新高山は、当時日本だった台湾にある山の名前。
標高3,952m。3,776mの富士山整形美容よりも高い。
台湾が日本領になって、富士山よりも高い新しい日本の最高峰という意味で新高山と名付けられたとwikiにはある。
清朝には八通関山。

新高梨の名前の由来については、wikiには神奈川県園芸試験場桃李会の10周年記念誌を引用して、優れた品種であったことから当時日本最高峰の名を用いたとある。
通説は、新潟県の天の川と高知県の今村秋の二つの品種をかけ合わせてできた交雑種で、それぞれの県名を一字ずつもらって新高にしたということになっている。
真実はよくわからない。そんなものだ。

さて、太秋柿と津軽りんごでジャムを作るのにフードプロセッサを使って味をしめたので、今回もフードプロセッサを使って梨ジャムを作ることにしてみた。
フードプロセッサにかければ果汁が多く出るのが予想された。繊維質が多いので、細断された分、煮詰めの時間は早く済むはずだ。

で、予想通りに事が運ん掉頭髮原因だが、何かが変。
包丁で刻んだ時よりも水分が多く、なかなか煮詰まらない。
色を見ると果肉は十分に煮込まれたので、ペクチンを足して粘り気を補強することにする。
火を止めて瓶に詰め終わることになると、やはり変。
予想よりも出来上がりの量が少なかった。

フードプロセッサにかけて、水分が出過ぎ、蒸発量が多くなったに違いない。
包丁で刻んだ場合は、煮込んでも小さな実の塊の中に水分が残るのが、フードプロセッサで砕かれてその水分も外に出てしまったのか?
・・・などと理屈を考えてみたが、新高引伸波幅の由来同様、真実はよくわからないのだった。

カテゴリー: 未分類 | 投稿者sallyyuew 17:25 | コメントをどうぞ

改めてWEB大辞泉を調べてみると

「天皇のすむ所。特に、明治21年旧江戸城を宮城と称してから、昭和21年までの皇居の称」と書かれている。
 戦前、戦中派の人たちはこの黃斑部病變言葉に親しんでいる。終戦時のニュースフィルムなどを見ていると、「宮城の前には人々が集まり・・・」といったナレーションが流れるのを聞いたことがあるかもしれない。

 宮内庁のホームページの説明は辞書とは若干違っていて、「徳川幕府の居城(江戸城)であったものが、明治元年に皇居となり、明治21年以来、宮城と称されていましたが、昭和23年、宮城の名称が廃止されて、皇居と呼ばれるようになりました」とある。

 明治21年から昭和21年までなのか、それとも23年までなのか・・・まあ、大した違いではない。
 皇居が宮城と呼ばれるようになったのは、明治21年10月27日の宮内省告示第6号「皇居御造営落成ニ付自今宮城ト称セラル件」が根拠になっている。
 同様に呼称の廃止は、昭和23年7月1日の宮内府告示第13号「皇居を宮城と称する告示廃止」が根拠で、これによるとWEB大辞泉の説明は誤りということになる。

 細かい違いだが一応気になったので糖尿眼広辞苑を見たが、廃止の年号については書かれていなかった。WEB大辞泉の誤記かもしれない。

 地図で確かめてみると、昭和22年のものには宮城と書かれ、昭和25年のものには皇居と書かれているので昭和23年を区切りに変更されたといえるかもしれないが、確証はない。

 江戸期から明治期の地図上での表記の変遷をたどっていくと、江戸期には江戸城は御城と書かれていて、江戸時代の地誌『江戸砂子』や『江戸志』、幕府編纂の『御府内備考』等にも御城と書かれていることから、御城と呼ばれていたことがわかる。

 江戸城については、『御府内備考』に、「甲陽軍鑑に中武蔵江戸の城とあり、又右文書に江戸中城或は江城と書しものあり。又落穂集に御入國以前まで千代田が城と唱へしといひ、泰政録には元平河城と称せし由、記せり」とあり、いくつかの呼び名があった。

 江戸中期の『落穂集』には、江戸に城を築こうと候補地を探していた太田道灌が、千代まで長く栄える名だと千代田村に城を築くことに決めたことから、千代田が城と呼ばれるようになったと書かれている。
 太田道灌が霊夢によって江戸城を築いたことは室町時代の軍記『永享記』にあるが、「武州荏原郡品川の館に居住したりしが、霊夢告ありとて、同國豊島郡江戸の館に移り給ふ。優れたる名地にて、山なしと雖(いえど)も、四邊(辺)を見下し、入海あり、諸国往還の便を為す。誠に目出度所なればとて、此城を靜勝軒と號(号)す」と書かれていて、地の利についての説明はあるが千代田には触れられていない。

 なお『落穂集』と同時期の『江戸砂子』には、『永享記』と『落穂集』を併せた記述があるが、千代田の由来についてはよくわかっていない。
 江戸初期の『泰政録』にある平河は現在の神田川の古名で、家近視控制康入府以前は江戸城に面した日比谷入江に注いでいた。

カテゴリー: 未分類 | 投稿者sallyyuew 16:30 | コメントをどうぞ

その話を聞いてから

私自身、特別キャンディーズのファンでも、スーちゃんのファンでもなかったが、昨夜遅くにネットでこのニュースを知った時、驚きもしたし悲しくもあった。
自分よりも若い人が亡くなることはただでさえ悲しいが、スーちゃんについては別の感情がある。

田中好子さんとはお会いしたことはなかったが如新nuskin香港、キャンディーズの人気が出始めた頃、田中さんの御家族を知る人からある話を聞いたことがあった。
田中さんにはお姉さんと弟さんがいらしたが、たいへんな弟思いで、しかもその弟さんが重病を患っていた。どうやら小児癌だったようだ。

テレビでキャンディーズのスーちゃんを見るたびに、弟さんのことが頭から離れなくなった。
女性の顔の好みはそれぞれだし、キャンディーズのランちゃんやミキちゃんのファンの人には怒られるかもしれないが、客観的にみれば顔の造形という点ではスーちゃんが一番整っていた。目鼻立ちのはっきりした、童顔で少女雑誌の表紙を飾るような愛くるしい顔だった。

スーちゃんはその可愛い顔でいつもニコニコしていたが、その笑顔は少し控えめで、笑顔の陰に悲しみが見えるような気がしていた。
キャンディーズが引退した時、スーちゃんは芸能界を離れ、実家で家族を助けて弟の世話をすると聞いた。
引退の際の台詞、「普通の女の子に戻りたい」に嘘はなかったのである。

しかし、しばらくして田中さんは再び芸能界に復帰した。
病気の弟さんを抱えて、やはり経済的にも仕事をする必要があったのだろうか、と思いもした。
今回、田中さんが亡くなられてネットを調べてみたら、「キャンディーズ・メモリアルエトセトラ」という記事を見つけた。今は更新されていないようだが、ファンの方が書かれたものなのだろう。
おそらくは、ここに書かれた通りなのだと思う如新nuskin香港

田中さんのインタビュー記事も見つけたが、その中で田中さんは芸能界に復帰した理由を、病気の弟から「僕はお姉ちゃんがテレビに出てる姿が一番好きだ」と言われたからだと語っている。
今村昌平監督の「黒い雨」は1989年の公開で、田中さんは映画賞の主演女優賞を総なめした。当時、田中さんは30代前半だったが、すでに弟さんは他界されていたそうだ。

その2年後、田中さんは夏目雅子さんの兄・小達一雄さんと結婚している。ファンの方が言うように、妹を失った兄と、弟を失った姉が惹かれ合ったのかもしれない。

弟を若くして病で失った田中好子さんもまた、50代にして癌に斃れた。
そして、美しい妹を若くして失い、妻をもまた若くして失ってしまった小達一雄さんの悲しみを思う。

田中さんの実家、田中釣具店は足立区の千住新橋の袂にある。
今は荒川との間に高速道路が走り、千住新橋から下りる道も高架になってしまったが、当時は道も狭く荒川土手はすぐ目と鼻の先にあった。
田中釣具店の対岸には東京電力の火力発電所、通称・お化け煙突が見えた。
荒川、以前は荒川放水路と呼ばれていたが、川の中央に北千住側から伸びた木の桟橋があって、釣り船が舫ってあった。
岸から糸を垂らす釣り人や子供たちの姿も見掛けた。

田中さんの昔のホームページの断片がネットに残っていた。その中に新婚旅行の際のエピソードが書かれている。
ご両親も同行され、お父さんが釣った大魚の写真、幸せそうな田中さんの姿がある如新nuskin香港

カテゴリー: 未分類 | 投稿者sallyyuew 19:20 | コメントをどうぞ

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カテゴリー: 未分類 | 投稿者sallyyuew 10:20 | 1件のコメント