月別アーカイブ: 2015年12月

聞かれもしないのに

あ、ご近所の知り合いの方鑽石能量水
うちから、数軒ぐらいのところに家がある、超、激近。
(いつもそうなので)駅まで乗せていってくださると、たぶん思い、勝手にドアをあけ、勝手に乗り込んだ。

「ありがとう。て、勝手に乗ってるけど、厚かましかったかな?」
というかんじのことを言ったかどうか、忘れたが。
とりあえず乗り込んだ。

「家が遠いから※なかなか会う機会ないわねえ。(※入力ミスではありません)
皆さんと、会ってます?」
と、とりあえず切り出す。

駅までの4分ぐらいの間に、ここ4年ぐらいの近況報告をした。
自己紹介のスピーチか、朝の朝礼みたいなもので、時間が限られている中での話は、
内容が制限される。

彼女とは、子供会や自治会、子供の習い事でご一緒したことがあり、
彼女のほうが、数歳年上で、子供の年齢は、彼女の末子よりも、わたしの第一子が、年下。
静かで控えめで、きりりとした美人。

わぁ~と制限時間いっぱいの中、何を話そうかと思い、
まず、彼女に話を振った保法止
「ここ数年、なにか変化、ありますか?」

彼女の返事は、
「そうねえ、年齢を感じるようになったわ。
腰が痛かったりして、前より歳の分、衰えたと感じる」

わたしの近況報告は、娘一家のこと。
彼女からの報告は、ご近所の共通の知り合いの子供たちの近況。
子供といっても、皆さん、もう、子供がいるけれど。

彼女からの娘さんたちの報告は、なかった。
なので、あえて聞かなかったが、ひょっとすると、お子さん(お孫さん)がおられないのかも知れない。
もし、いたら、自分の口から出るだろうと思うので、あえて、そこは尋ねてみなかった。

彼女からの質問は、仕事のことだった。
自分の家庭のことは、わたしには話したくないのかも知れない。

何年かに一回の偶然の出会いで、ご近所さんとのコミュニケーションを無事果たしたが、
なんだか、ちょっとすっきり晴れ晴れしいかんじがしなかった。

彼女の口からは、娘さんたちの話が出なかったからだろう。
ご近所知り合いの娘さんたちや、わたしの娘のことは話題に上がっても、彼女の娘さんのことは話さない・・・
深読みからも知れないが、
ある程度、自分や知り合いなどの話が出た時は、ちょっとぐらいは自分の家のことも話したほうが、
へんに相手に気を使われなくてもいいようだと、学習した。

中には、聞いてもいないのに、持ち時間をすべて自分のことを話す人もいる。
彼女が控えめなのかも知れない。
25年ぐらい前から、ママ友たちの中でもそうだった。
彼女は、わたしとは年齢が上のママ友グループになるが、
彼女のグループは、教育熱心で、主張の強い人が多かった。
その中で、彼女は、あまり口数が多くない人だった時差 適應

そのキャラクターを知っているにしても、わたしもどちらかと言うと、聞き役のことが多いからか、
自分が主導権をとって話すのは、苦手である。

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旅の始まり

もちろんイの一番にしたことはアンナちゃんの職人さんに
電話をかけることだった。「昨日、アンナちゃんのチェロを見ましたNeo skin lab 介紹人
あんなの(ってダジャレじゃないつもりなんだけど)欲しいです!」って。

職人さんはいわゆるアトリエを持って一人で毎日コツコツ楽器を
作ってらっしゃる方だから(大きな楽器屋さんではないので)当然
アンナちゃんのことを覚えてらした。

『残念ながら今すぐにというわけではないのだけれど、今、制作中の
ものがあるから3ヶ月以内に出来上がりますよ。』

そう、売れっ子職人さんの作品は完成する側から売れてしまうから
争奪戦になってしまうのだ。でもとりあえず次回作ゲットの筆頭リストに
加えてもらえた。これは悪くない兆候だと思う。新作の楽器というのは
真価を計るのに時間がかかるし必ずしも彼の作品だからといって綾ちゃんの
気に入るとは限らない。オタクのムスコさん、誰でもいいからオムコに
下さいってなわけにはいかんのだ。(⇦しつこい)何よりも他にどんな
出逢いが他に待っているかわからないから他所を当たれるだけ当たって
みたほうがいい。そうしたらきっと綾ちゃんのチェロ審美眼も
磨かれることになるだろうPretty renew 旺角

綾ちゃんは更なるアドヴェンチャーを(?)求めて旅に出ることに
なったのである。

ヨーヨーマは世界最高のチェロを持っている一人。
ウイキ博士によればモンタニアーナのペチュニア、
それからジャクリーヌ デユ プレから譲り受けた(!)
ストラディヴァリウスを演奏しているそうだPretty renew 美容

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でこそこそと

この時を境にというわけではないのですが、以前からうすうす思っていたあることが強化されたのだと感じています。
それは偏見と主観は根底が一緒であるということです同珍王賜豪
偏見も主観も善悪、正解不正解で測りきれるものではないということです。どんなきれいごとを並べたところで必ず人は持っているということです。

ですが偏見と主観は根底は一緒だと思いますが異なる部分があります。
それは偏見は個人の倫理が変われば無くなったり新たに持ったりしますが主観は倫理が変わっても変わることはありません。偏見は社会性を持っていますが主観は個人の脳、いうなれば人の五感という感覚、そして感性に従っての差別化なので社会性を持っていません。主観はもっと根底の個人の 好き嫌い 愉快不愉快 という本能で物事を差別化するものです。
例えば いい匂い いい味 いい感触 いい音 いい景色 という五感、又 この犬可愛い このアニメは感動する などの感性は個人の主観であり倫理が変わったところで変わらないのです。

僕は偏見や主観を否定するつもりはありません。というより否定しても偏見や主観は存在するものなので否定のしようがないのです。主観に関してはもしこれなければ愉快を感じることはありませんしなにより主観が感動を生み出すものだと思っています。

ただ偏見や主観を言葉で発したり表現するということはあまり好ましくないと僕は思うんですよね。
偏見は言うまでもありませんが主観を言葉で発したり表現するということは個人の感覚、価値観の主張、押し付けにしかならないからです。
極論を言うと主観では カラスは白い と言い張ることができるのです。主観には 正解不正解 がないのでなんとでも言えるのです。
例えば食べ物に関して言うと 美味い 不味い は個人の好みによって異なります。美味い 不味い に 正解不正解 はありません。別に 美味い 不味い と感じることにケチをつけるわけではありません。僕だって 美味い 不味い を日常茶飯事で感じています。ただ客観的正当性を証明することができない対象のものや事柄を主観で評価して他人に伝達することなどしなくてもいいと思うんです。まあこんな 美味い 不味い が商業ベースとなると宣伝というものになるのはわかっているんですがね防脫髮產品

一般の事柄についてもですが特に芸術家やクリエーターなど感性に訴える価値や感動を創造する方々(料理人もそうですよね)の創り出したものに対しその作品、上澄みを個人の主観で評価して 観た聴いた食べたを評価できる自分はすごいだろ的 そんなすごい自分を評価して的 なその プチヒーロー根性 を誇示、主張することって如何なものかと思うんです。
芸術家やクリエーター、料理人などは確かに評価されるのが仕事ですよ。だからといってそれに乗じて主観で評価して オレ様 を誇示するなんて奴はある意味人格が欠損していると僕は思うんです。主観は黙って心の中にそっとしまいこんでおけばいいと思うんです。個人の主観をあえてメディアにのせたりするなんてのは自己満足以外になにがあるのでしょうかね。
主観で 上手い 下手くそ の 上から目線評価 をするからには自分が今やっている仕事について他人からその仕事の表面だけを見られて主観で かっこ悪い ウザい などの 上から目線評価 されても仕方がないということを受け入れるだけの覚悟があるんでしょうかね。

仕事ってのはどの仕事でもお客様あっての生業であるので商業ベースでのシステムの中ではその業界ごとに何とも言えないことはあるのでしょうが、主観で恣意的に評価をすることされることがないとは言えませんしね增強記憶力

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祖父母の家の思い出

私の母は福島県と宮城県境にある伊達郡のある町に生まれ育った。共働きで忙しい両親は、小学校が長期休暇に入ると、私を母の実家で過ごさせた。だから、この町にはいろいろな思い出がある。夏に一時帰郷をした時、この町に眠る祖父母の墓参りに行った。地震の爪痕は二本松市や福島市よりも深く、古い家々は倒壊しているものが多かったAH股價

墓地は倒れて壊れてしまった墓石もあったが、地域の人たちの努力でできるだけ元の位置に戻されていた。祖父母の墓石は横長で安定性が高かったのでダメージはなかった。線香を焚き両手を合わせていたら、祖父母の家で1978年の宮城県沖地震に遭遇した時のことを鮮明に思い出した。
地震は夕飯の用意をしていた時にやってきた。祖母はスパゲッティの用意でミートソースを煮詰めていて、いい匂いがしていた。はじめはそれほどでもなかった揺れがだんだん激しくなって、天井で電灯の傘がブンブン振り回された。その真下の飯台にいた私は、母の誘導で揺れる室内を何とか歩いて、一番奥のタンス部屋(と呼んでいた客室)に行き、ガタガタ出てくるタンスの引き出しを両手で押さえているように言われた(今考えてみると倒れてきたらかなりやばかった!)。母は祖母を見てくると言って台所へ行ってしまった。タンスは幸い倒れなかった。台所へ行ってみると、散乱した食器、そこにミートソースの鍋が床に落ちて酷い状態になっていた。母は鍋が落ちた後につけっぱなしになっていたガスを止め、元栓を閉じたそうだ。祖母も母もやけどを免れ幸いだった。玄関を出ると、家の敷地を取り囲んでいた壁がすっかり崩れ、すぐそばの県道が見通せた。声が出なかった。家がつぶれなかったのでよかった、と祖父母たちは話をしていた。祖父がラジオを出してきた。アナウンサーが地震の速報を伝えていた。あの夕暮れ時、私は初めて死の恐怖というものを感じた樓宇套現

墓地を出てから、そういえばよく遊びに行っていた遠い親戚の家はどうなったろう、とふと思った。墓地からそれほど遠くないので、歩いて家の前を通ってみた。家屋や敷地に被害はなさそうだったが、以前はよく吠えていた犬はもういなくなってしまったのだろう、シンと静まりかえっていた。私が出入りさせてもらっていた裏玄関の周辺には雑草が生い茂り、庭木が伸び放題になっていて、玄関の入り口が通りからまったく見えない状態になってしまっていた。母は「お化け屋敷ね」と感想を述べた。親族はちゃんと住んでいるらしいのだが…。臆して挨拶に伺うことができなかったことは、ちょっと情けなかったと思う。

私がアメリカに留学をしていた三年の間に、祖父母は相次いで亡くなった。お葬式に出席できないままだったことが影響しているのかどうか、祖父母はよく夢に現れる。今は取り壊されてなくなってしまった祖父母の家が、生き生きとよみがえり、裏の畑のデラウエアを摘む祖父の鋏のパチンという音が聞こえてくる。そう言えば、お風呂のために薪をくべる祖母の炭臭い割烹着のポケットの中身はなんだったろう…。ばあちゃん、あのときに聞けばよかったね謝師宴 化妝

カテゴリー: 未分類 | 投稿者biubiuplpl 11:52 | コメントをどうぞ

サイゴン陥落

どうもキッチーです。
今年は戦後70年の節目の年だとよく言われますが、もう1つ大切な節目の年でもあります。
それは1975年4月30日。ベトナム戦争終結から40年の節目であります雋景探索40

ここではベトナム戦争を軽く振り返って見ましょう。

フランスの植民地だったベトナムが独立を果たそうとしたのは、第一次インドシナ戦争に遡ります。
元々フランスの植民地であったインドシナに、第二次世界大戦時日本軍が進駐、軍事的には日本が政治的にはフランスが支配を続けるという構図が出来上がりました。
しかしフランスも一枚岩ではなく、植民地保持を訴えるヴィシー政権に対し、シャルル・ド・ゴール率いる自由フランスは戦後の現地人の自治権拡大を約束しました。
そして1944年自由フランス主導のフランス共和国臨時政府がパリ奪還をしたのに伴い、1945年3月日本がフランス領インドシナ政府を解体、フランスの植民地支配の終結を宣言しベトナム帝国が独立を宣言しました。
更に1945年8月日本軍の無条件降伏を受け、ベトナム独立同盟会がベトナム帝国のバオ・ダイ皇帝を退位させ、臨時ベトナム民主共和国政府を成立、9月2日日本の降伏文書調印を待って、改めてベトナム民主共和国政府の独立を宣言しました。
しかしながらインドシナには、戦勝国である連合国進駐軍が展開し、北緯16度線以北が中国の国民党軍、以南が英国軍に割り当てられ、再びフランス軍が全土に展開するのを待ちました。
その後1946年、ベトナム独立同盟会とフランスの間でハノイ暫定協定が締結され、フランス連合インドシナ連邦の一国としてベトナム民主共和国の独立とトンキン地方のフランス軍駐留を認める一時的妥協が成立しました。
その後もベトナム民主共和国とフランス共和国臨時政府との間では独立交渉が行われましたが、フランスはベトナム南部に自らの傀儡政権『コーチシナ共和国』を成立させベトナムとフランスの対立軸は尚一層深くなっていきました。
ベトナム側はホー・チ・ミン氏を中心とした代表団をフランスのフォンテーヌブローに送り独立交渉を続けましたが、相互譲歩は行われずこの交渉は決裂に終わりました。
これを契機にベトナム独立同盟会は独立戦争長期化に備えて、元日本軍将兵を教官とした軍事学校を設立、近代戦闘に対処出来る将校の育成に力を入れました。

ベトナム側とフランス側の小競り合いは数年続き、遂には外国勢力の参加がなされます。
1948年フランスはコーチシナ共和国を廃して旧帝国最後の皇帝バオ・ダイを国家主席とする傀儡のベトナム国を成立させ正当性を主張。これにアメリカが力を貸します。
1950年にはソ連と前年成立した中華人民共和国がベトナム民主共和国(ホー・チ・ミン政権)を正式承認し、武器援助を開始しました。
こうして第一次インドシナ戦争は、単にベトナム人民の独立運動ではなくなり、東西冷戦の一部となりました。
ところが同年6月朝鮮戦争が勃発すると、米中ソはそちらに力を注ぎインドシナ戦争はそっちのけになりましたNeo skin lab 呃人

一方その頃フランス本国では自国民の兵士がこれ以上海外で傷つく事を嫌う厭戦ムードが高まり、部隊の大半はフランス外人部隊や士気の低い植民地兵によって構成されるようになりました。
その後なんだかんだあってフランスはディエンビエンフーの戦いに敗北、ベトナム各地からの撤退を余儀なくされて、事実上の敗戦が決定的となりました。

敗北したフランスはベトナム民主共和国と和平交渉を開始し、関係国の間でジュネーヴ協定が締結されました。
これによりひとまず北緯17度線を境に両軍を分離して1956年にべトナム全国統一選挙を行うことが定められた訳ですが、話は一筋縄にはいきません。
アメリカが協定に参加せず、統一選挙を拒否し南に傀儡政権ベトナム国を存続させたのです。
フランスは自ら持つアフリカの植民地の独立戦争の激化に伴い、アジアまで手が回せなくなり、インドシナをアメリカに肩代わりさせ撤退。アメリカは自分の影響力を強く持つベトナム共和国(南ベトナム)を成立させました。

と、ここまでが前段階の第一次インドシナ戦争です。
大分端折りましたが、第二次インドシナ戦争(ベトナム戦争)はもっと端折りましょう。

南北ベトナムの分断、ベトナム戦争が東西両陣営の冷戦の代理戦争になった経緯は上記の通りです。
北ベトナム、ホー・チ・ミン率いるベトナム民主共和国側は、アメリカの傀儡国家南ベトナムを打破し、ベトナム人による南北ベトナム統一独立国家の建国及び植民地支配からの脱却を目指したのです。

さてではなぜアメリカは南ベトナムに拘り、ベトナムの全国統一選挙を拒否したのでしょうか。
これはホー・チ・ミンが共産主義イデオロギーの元一党独裁の政治体制を目指し、その体制の下でまともな民主的選挙が行われるとは到底考えられなかったからです。
そしてベトナム全土が共産化すると、その波は周辺国まで広がる、所謂ドミノ理論を恐れての事でした。
しかしアメリカの支援を受けていた南ベトナム政府も、けして政権運営が上手く行ったとは言えず、独裁色が色濃く出たり宗教弾圧をしたりと、中々の困り者でした。
アメリカはアイゼンハワー大統領の時に軍事顧問団を南ベトナムに送り、ケネディ大統領の時に正規軍の派兵を進め、ジョンソン大統領の時に大規模な正規軍を送ってベトナム戦争に積極的に介入しました。

しかしアメリカ本国はもとより、国際社会全体が反戦ムードに包まれ、国連との関係も劣悪になる中、1973年のパリ協定を経てニクソン大統領は派遣したアメリカ軍を撤退させました。(この間に本当に色んな事が起きているのですが詳しく知りたい方はWikipediaまでどうぞ)
その後も南北ベトナム軍どうしの戦闘は続きますが、現在のベトナムの経済拠点ホーチミン市、当時の名でサイゴンにあった南ベトナム大統領府の門を北ベトナム軍の戦車が突き破って、軍人政府関係者が一斉に逃げ出す様子が全世界にTV放映され、ベトナム戦争は終結に至ったのです。これがサイゴン陥落です。
南ベトナムの大統領府だった場所には今でも戦車が飾られています。今から40年前、1975年4月30日の出来事でした。

ベトナムは今でも社会主義国ですが、改革開放路線を採り多くの日系企業が進出していますし、今年の7月にはベトナム最高指導者のグエン・フー・チョン共産党書記長がホワイトハウスでオバマ大統領と会談しましたね。
歴史は一歩ずつ動いていると思います。

最後に日本で起きた事を少し。
『新宿騒乱事件』1968.10.21
ベトナム戦争の最中、日本がアメリカ軍に燃料を供与している事実が明るみになり、その燃料が新宿駅を通る貨物列車に拠って運ばれている事を知った反戦運動活動者(敢えて左翼とは書きません)が、新宿駅を焼き討ちにした事件です。
今では当たり前に行われている自衛隊の活動の1つですが、当時の活動家達にはどうしても許せなかったのでしょうね。

『朝鮮特需』1950~1952
GHQの命によりアメリカ軍から兵器や砲弾などの生産を受注・供与して、大金を稼ぎました。

今の安保法案のやり取りが馬鹿らしくなりますね。
社民党の福島瑞穂議員が武器弾薬の供与は消耗品に限るとあるがミサイルはどうなのかと国会で質疑をし、中谷防衛大臣がミサイルは消耗品に入りますと答弁しました。
これは恐らく地対空ミサイルパトリオット(正確にはペイトリオット)やイージス艦の艦対空ミサイルSM-3を指しての事と思いますNeo skin lab 好唔好
湾岸戦争の時、よくイラク軍のトマホークをパトリオットが迎撃したとニュースになっていましたが、あんなのは嘘っぱちで、当時のパトリオットの性能はまだまだ命中精度の低い物でした。
果たして現在のイージスシステムを使った迎撃体制はどんなものなんでしょうね。こればかりは戦闘が始まってみないと分かりません。

ちょっと余談が過ぎました。
今回は自分がまだ生まれてない時代の事について、自分で勉強した限りの事を書きましたが、間違いや不備な点が御座いましたらお詫びして訂正いたします。
次回はもっと緩い内容で行きましょう。ちょっと疲れました。

カテゴリー: 未分類 | 投稿者biubiuplpl 11:50 | コメントをどうぞ