「蓑虫(みのむし)」が鳴くという話がある。
現実的には声帯を持たないので鳴くハズがないが、
秋の落ち葉を集めて自分の身体に巻き付けて、
一本のクモの糸のようなものにぶら下がって風の中に居る様子を見るにつけ、
上代の人には、悲しい鳴き声が聞こえてく。
この蓑虫、「鬼の捨子」という 異名を持っている。
すなわち、鬼が捨てて行った子供といった捉え方をしている。
かの『枕草子』に、
「蓑虫、いとあはれなり。『鬼の生みたりければ』親に似て、これも恐しき心あらんとて、
八月ばかりになれば『ちちよ、ちちよ』と、はかなげに鳴く、
いみじうあわれなり」と出てくる。
八月は、陽暦では10月か11月。まさにウラ淋しさが募ってくる季節。
木枯らしが吹いてくるそんな夜に、自分を捨てた鬼の父だが、
子は、「父恋し」と、はかなげに鳴くのは非常に哀れだ、という意味になる。
明治生まれの俳人?高浜虚子がこれに取材した句を詠んでいる。
「 蓑虫の 父よと鳴きて 母もなし」とある。
この句、ちょっと穿った見方をして、
『蓑虫が「父恋し」と鳴くそうだが、母もいないぞ』というところだろうか。
同じ蓑虫でも、見方や捉え方は千差万別。
与謝蕪村の句に、
「蓑虫の えたりかしこし 初しぐれ」というのがある。
これは、蓑虫を哀れや可哀想と思って捉えたものではなく、
むしろ「したたか」な存在として捉えている。
これを解釈すると、今となっては死語になっている「えたりかしこし」だが、
意味は「ものごとが自分の思い通りになった時の喜びを表現する言葉」。
そういったところから、この句を解釈すると、
「これ蓑虫さんや、うまくやったね!蓑を着たところで初しぐれなんて」
と解釈される。
「蓑虫」を親から捨てられた「悲しく哀れな存在」と捉える人もいれば、
なんとも「したたかな存在」と捉える人もいる。
昨今のニュースで話題になっている人たちのことを
「悲しく哀れな存在」という人もいれば、「したたかな存在」と捉える人もいる。
まことに、人の世は難しい。