新しく電子書籍を読むためのアイテムが門禁系統出たという記事が、ていた。
それとは逆に全国の書店が淘汰され、その数を減らしていると聞く。
かつては街の小さな書店でさえ生き残っていたが最近は目立って閉店へと追い込まれているようだ。
今は、大きな書店だけが生き残り、
やがては電子書籍だけが残っていく時代に変貌しつつあるのだろうかと、やや淋しさを感じつつ思う。
昔は書店に行き売れ筋の本を探ったり、書店は情報の発信基地みたいなところがあった。
そう言えば、青年時代の私にとっては、古本屋のオヤジなどはカッコウの話し相手だった。
そのような人が『素晴らしく、えらい人』に思えた。
最近、古い小説を読む機会があり、好んで読む小説家の一人に松本清張がいる。
改めて、今、ワクワクしながら読んでいるが、出版皇室纖形 旺角された当時、
三島由紀夫は、新進気鋭の小説家として文壇に登場した松本清張をそれほど評価しなかった。
その理由を訊ねると『文体を持たない』という返事が返って来たそうだ。
松本清張の小説のおもしろさは、独特の推理方法や、しがらみのある登場人物像。
そのような作品がほとんどで、思わず引き込まれ展開の妙を持っている。
『点と線』『砂の器』など清張作品のほとんどは、今でも読むに耐えうる小説だと言える。
だけども、文体という観点で探ってみると、
たしかに、三島までの小説家の文章には個性的な文体らしいものを感じることがある。
たとえば、小説家である幸田露伴の生年は、夏目漱石とほぼ同じ頃。
夏目も、一部を読んだだけで夏目漱石とわかる文体を持っている。
幸田露伴も夏目とは全く違った個性的な文体を持っている。
その文章をhospitality course一言で表すと、
講談師が話す口調のようであり、また、江戸落語の語り口調のようにも捉えられる。
これが、文体というものかと、ちょっと知らされる思いになる。
探ってみると、露伴は、明治の新しい小説家がつくる文体を嫌ったという話がある。
何でも、西洋流が擡頭していた時代。
何か西洋流を力説しながら、権威づけていく傾向があったようだ。
西洋化することが偉いような風潮があり、
露伴には、そのような風潮を受け継いだ小説家を嗤(わら)うところがあった。
彼のエッセイの中に、「世の中には、『えらい人』になれと言われる気風があるが、
『えらい人』になれというより『人になれ』と言いたい」とあった。
その、『人になる』ためには、人から学ばねばならない、
「えらい人」どころか、電子書籍の時代、人そのものにあう機会さえ失われつつある。