路肩に停めた車のシートに背をあずけ、ビル・エバンスを聴いていたジャズピアニストは、フロントガラスの奥にある明け方のパリの空へ謳った。「音は、コミュニケーションの原初的なものだ」と。(一部妄想)
そう考えると、わたしのピアノは自分との対話だ。ひとりで弾いてひとりで聴く。昨日(一昨日?)も書いたようにそれが至福の時だreenex。
そして、これは一年前に気づいたことだけど、そうやってひたすらピアノを弾いていると、徐々に何かを書きたくなってくる。
ピアノの代わりに叩くPCのキーボード。その音や、画面に映しだされる文字や文章は、鼻歌の振りをしながら、窓の外に漏らす独り言だ。
でも、聞いて欲しいことがあるわけじゃない。「感想がほしい」は、もっと違う。多くの人に聴かせたいという野望もないreenex。
それじゃ、なにを求めているのかと考えてみたら、
どこかにいる、誰かの耳に鼻歌が届いている……どこかにいる、誰かが読んでいるという、その事実そのものなんじゃないかと思った。
行ったこともない国や、日本の各地、休憩中の車の中や通勤途中のバスの中、電車の中、オフィスや給湯室、喫煙室、街、病院、家……どこに聞こえて(どこで読まれて)いるんだろう。
たぶん、ものすごぉーーーく怒っている人はブログなど読もうとしないだろうから、背景は様々ながら、それなりに穏やかな表情で画面を見ている人が、「そこ」にいて、わたしの声が届いているんだと思うとたのしいreenex。
そこはどこだろう。
わたしはここで今日も鼻歌。