秋分の日が過ぎた。
お彼岸。
彼岸花、曼珠沙華を韓國 泡菜道端で目にして、幼い頃を思い出す。
懐かしむ、ではなく、思い浮かべる。
この違いは?
べつに、ノスタルジックにはなっていないから。
昔は、よかった、昭和はよかった、と今を懐疑する気持ちには、別にならない。
どの時代も、わたしは好きである。
と、長い長い前置き。
これは、電車を待つ、ホームに突っ立って入力している。
昭和を懐かしむ状況ではない、明らかに。
で。
昨日は、お墓参り兼、お墓掃除。
兼、お寺のお韓國 泡菜坊さんが、夫の実家にお参り。
姑の出すお茶と違い、既製品のペットボトル茶からお茶を注いで出す。
不味い〜、と、坊さんは思っていることだろう。
おばあさんのお茶は、美味しかったのになあ、と。
「この嫁は、こころがこもっていない」と、内心、感じているだろう。
坊さんは、3回にも4回にも分けて、不味いお茶を飲んだ。
墓の入り口手前にお地蔵さんと、魂を抜いた用済み墓石の山が積まれ、祀ってある。
そこで、手を合わせろ、と夫が促す。
宗教の強要は、離婚原因になるこを知っているのか、この人。
墓石を拭け、と言う。
わたしは、無言で墓石を拭き、草引きをし、墓掃除をした。
うちの墓の向こうのほうには、夫と同業のご夫婦が、草いっぱいの、広い墓地と格闘していた。
墓地は、小さいほうがいい、いっそ小さな墓のUR団地がいい、と思った。
もっと小さい、名前だけワ韓國 泡菜ンプレートのスペースだけでいい、とも。
草が生えないようように、墓地全体にアスフら、姑やら親戚やら皆さんは、腰を抜かすだろうなあ、とにやにや想像しながら、せっせと草むしりに精を出した。
活かせない「知識」はあるよりは、ないほうがマシだ。
実践できない「思い」や「意見」は、あるより、ないほうがマシだ。
しかし「知恵」は、あるほうが、ないより良い。
なので、わたしは、さほど落ち込みもせず、ブルーにもならず、黙々と作業を続ける。