月別アーカイブ: 2016年1月

秋色の真ん中で

なんと青い空、洗濯干すのを一瞬忘れて空を眺めました。青一色雲一つなくてほのかに木犀の香りが漂ってきます。秋だなあ。朝の仕事が終わって一息ついた十時半頃娘からメールが来ました。

毎日何らかの連絡はあるけれど大抵夜のこと。開けてびっくり、急な出張で岡山へ行くの雪纖瘦だけど今夜帰るよ….。折角だから土日、月曜も休暇とったから少しのんびり出来ると言う。

私頭の整理に少しかかったけれどひらめいた。それなら丁度真ん中あたりの街に夫の関わった宿泊施設がある。そこの温泉で落ち合ってのんびりしょう。

それから私はフル活動、明日の団地のレク参加の取り消し、ちょっとした旅支度。時刻表をみて、バスと電車を決める。そして昼食もとらなくては。ああ忙しい。メールが来てから三時間後、一時二十六分には上りの予讃線に乗っていました。

窓から見える真っ青の空、沖縄の海かと見まがうぼどの彩盒瀬戸内海の美しい水色。小さな島影も秋色に溶け込んで、私にとっては懐かしい懐かしい路線なのです。この沿線に夫の実家があり、新婚の私たちが住んだ街があり、そして離れ住んでいた結婚前の私たちが、切ない別れを繰り返した駅があるのです。

窓の外を見やりつつ、大昔に思いを馳せる私は、とても幸せでした。そして娘と二カ月ぶりの再会です。街は丁度秋祭りで絢爛豪華な太鼓台を初めて見た彼女は感激しきりでした。

娘はここに来るのは初めてで、私はこの時とばかりに色々話して聞かせました。ここは夫にとって思い出の職場で、若い時初めて単身赴任した場所です。ここに

四年間いました。そして最後の任地がまたここだったのです。初めて二人で来た時は建物も古くて職員住宅も粗末なものでした。こんな所に一人残して帰るのが嫌だと思ったことも思いだしました。

あの頃演歌の「さざんかの宿」がヒット中で、ここに山茶花の散歩道を作ってお客を呼ぼうと職員の方たちが張り切っていました。宿泊記念に山茶花の苗を買って植樹して頂き、名前を書いた木札立てました。職員たちは率先して協力しました。私も夫と参加しました。

今回それを思い出して訪ねてみました。低く刈りこまれ、まだ花は咲いてなかったけれど、三十年近い時を経て素敵な散歩道が昔のままにあり、植樹した人たちの名前が書かれた看板の中に自分たちの名前を見つけて、興奮気味の私に娘が笑っていました。

ああ夫と二人で見たかった。花が咲く頃又来たいとつい思ってしまいました。二度目に来た時は建物も新しく天然温泉も出来、職員住宅も立派なものでした。ここで最後の二年間、夫は責任者として職務を全うして、長いサラリーマン生活を終えたのです。

もうあの頃の職員の方などいるはずもないけれど、施設のあちこちで、夫にあったような気がして大満足の私でした。

それなのにもっと凄い贈り物を見つけてしまいました。部屋は五階で、大きなガラス窓は百八十度の視界いっぱいに瀬戸の海が見え、そこに今まさに大きな大きな夕陽が真っ赤に燃えて落ちて行くところでした。

「うわあーきれい! 」この一言以外二人とも言葉もありませんでした。海はきらきらと金色に輝き、やがて神秘的な茜色に染まっ行きました。「だるま夕陽じゃない?」二人が同時に言いました。テレビでは見たことがあったけど実物をみるのは初めてでした。

だるま夕日は秋から冬にかけて大気と海水の温度差が大きい日に、海面の暖かい空気の岩盤浴價錢上に冷たい空気が重なり、光が屈折するため海面からもうひとつの太陽が顔を出し沈み行く太陽とくっついたように見えるのだそうです。

ああしばらくは夢の国にいたような気持ちでした。この感動の余韻をそのままに温泉で手足をのばし、ご馳走を食べてご機嫌の私たちでした。

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新しいひとたち

日記をつけ続けたことなんて無かった。 手紙ならいっぱい書いたことがある。

静岡の掛川に行ってきました。 実は僕、ビルのガラス拭きのバイトを始めたんです。といっても、今日の現場瑪姬美容はフロアクリーニングだったんですけど。 何故ビルのガラス拭きかというと、話が長くなるので、それは今度書きます。

昨日バイトの面接があって、今朝の9時過ぎに採用の電話がかかってきました。「採用ということなんですけど、急なんですけど、今日の夜7時からなんですけど、入れますか?現場が静岡でちょっと遠いんですけど。」という、冗談みたいな電話でした。 静岡? もちろん僕はノリで引き受けました。だって静岡ですよ。

夜7時ちょうどに事務所に着くと、若い坊主頭の男の人しかいませんでした。とりあえず挨拶をして、三つあるスチールデスクの一つに座りました。 彼は報告書のようなものを作っている様子でした。 時間が流れました。 7時半頃、30才過ぎの坊主頭の人が来て、僕は挨拶をしました。 若い坊主頭が報告書を作り上げると、二人の間で二人にしか分からない話しが続きました。 たまに僕に話しかけることもあったけど、僕にほとんど興味は無い様でした。 8時半頃もう一人来ました。彼は坊主頭ではなかったので、少しほっとしました。 彼は無口で、顔が青白くて、目が泳いでいるだけでした。

さて、出発です。 掛川まで高速を飛ばして4時間、僕はほとんど喋らずに半分眠詩琳美容っていました。話しかけるのが、はばかれる雰囲気が、白いライトバンの中に立ち込めていました。バスの運転手と乗客のようでした。でも一つ気がついたことがありました。

それは、狭い車内に4時間もいると、たとえ全然知らない人でも、何となく親近感がわいてくるということです。 僕は後部座席の右側に座っていたんだけど、喋らなくても常に視界に入っているだけで何となく、僕は彼らのことを少し分かったような気がしました。 それは彼らの彼らにしか分からない話を、僕が理解しようと努めたからかもしれないし、僕の生来の性格のせいかもしれません。 でも何となく僕は彼らのことを身近に感じました。そして、意外にも新しく出会った人たちを身近に感じている自分に気付き、新潟で9年間監禁されていた少女と監禁していた男のことを考えました。 冬の寒いある日「今日は天気がいいね」と、少女が男にぼそっと話しかける様子を想像しました。

現場は「ムー大陸」という名前の大きなゲームセンターでした。仕事自体は簡単で、3時間詩琳黑店で終わりました。ずっとモップをかけていました。移動に8時間かけて、仕事は3時間。楽といえば楽な仕事でした。 高速の途中、マイナス4度という電工掲示板を見ました。車の中からもたくさんの星が見えました。

さて。明日は朝の8時に事務所に集合です。 ちょっと変わった世界で、これから知らない人にいっぱい会うのかと思うと、何となく面倒にも感じるけど、楽しみでもあります。

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ごんぎつね

大好きな絵本のこと。
実は、先日新聞に、新美南吉の『ごんぎつね』のオリジナルテキストがあって、私たちが読んできたのは雑誌『赤い鳥』主宰者・鈴木三重吉が添削したものだということが書いてありました。

え? そんなことがあるんだ、と驚いたり、確かに作家が書いたものを、より読者に受け入れられるような形に編集者、あるいは雑誌の主宰能量水者が添削を入れるってのは、あるとも聞くしなぁと納得したり。
もちろん筋立てが変わるわけではないけれど、表現が変わると微妙なニュアンスが変わることもある。

そこで、ある学校の先生が、オリジナルのテキストと流通している『赤い鳥』版を両方使って比較しながら授業をされているのだとか。実際に、両方を読んだ子供たちの反応は豊か。
どちらがいい・悪いではなく、違いからどんなふうに感じるか、ということが大事なようで。

特に最後の場面は、ちょっとした言葉の違いで結構印象が異なっています。

確かに、通して読んでみると、ごんの気持ちの流れがずっと書いてあるのに、最後雪纖瘦だけ『ぐったりと目をつぶったままうなずいて」終わるので、何だか「ごんぎつね」は悲しい話という読後感が残ってしまっていました。
間違いで撃たれてしまったごんが、実は『嬉しかった』、という言葉を新美南吉が残していたんですね。
そして、撃ってしまった兵十は「おや」じゃなくて「おや――――――――」だったんですね。

読みようによっては子どもたちに「罪を償う話」にとられてしまいがちだったものが、この言葉で、「ごんが自分と同じように孤独な兵十に、つながりを求め続けた思い」が子供たちによりわかりやすく伝わるようになったと。

たった一つの言葉で印象や読後感が変わる。
これって結構怖い話だと思いけれど、物語というものの広がりも感じさせるなぁ、と思いました。

この黒井健さんの絵、本当に素敵ですよね。ほわんとした優しい絵。
お母さんのお葬式のシーンの彼岸花の赤、そのあとずっと兵十のあとをついていって様子をみているごんの姿。

分かって欲しくて、でも償いのためにやっていることをわざわざ言うこともないし、というよりも言えないし、ずっと後ろをついていっている。栗をくれたのは神様だという会話を聞いてがっかりしてみたり。
特に、兵十のお母さんのお葬雪纖瘦式を見て、穴の中でひとり反省している(文字通り、省みている/顧みている)ごんの絵がとても好きなんです(アップで……)。
そのあと、ちょっと離れたところから精一杯のことをしているごん。
(黒井さんの絵は、暗がりの中のその黄金の狐の毛が、とても印象的。)
ごんの色々な気持ちが集約して、「うれしかった」という言葉なんだなぁ。

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