月別アーカイブ: 2016年9月

表裏一体である

自分のブログに関するアクセス解析を見ると、閲覧元URLが表示される。
どのキーワードから飛んできたか、よくわかって面白い。

その中で、昨日は、「家政学部  嫁」というキーワードがあった。
自分の記事が、検索で引っかかって、蝶ブログに飛んできたようだ。
3年ぐらい前の古い記事。

で、その、自分の記事を改めて読んでみた。

まあ、好きなことを書いている。
自分のことを棚にあげて、よくまあ、しゃあしゃあと。
上から目線の権化である。(自覚してますが)

こうだったらいいな→できもしない理想。
これはあかんわ→理想どおりにいかないのは、內在潛能わかりきっていることなのに。
こういうことを、評論家ではなく、批評家のごとく、書き連ねている。
こんなことを書いている人は、いったい、どれだけ自分が出来るんだ???

世の中の「一生懸命、頑張っても上手くいっていない人」
「頑張って上手くいっているつもりの人」をオモシロいほど、コケにしている。
たぶん、要領の悪い、評価の低い自分へのエールなんだろう。自虐ベース。
(後に、この要領の悪さは、いつの間にか、べつのものに転じていた)
自分ではわかっていて、書いているのだが、読む人にとっては、グサグサ突き刺さるだろう。
わたしは、今読むと、この無責任な痛さが、気持ちいい。

しかし、こういう人が身近にいると、嫌だろうなあと思う。
自分だから仕方ないが。

人間やモノゴトには両面あって、表裏一体である・・・
なので、自分にも、天使と悪魔を内包している、と言いた林二汶いところだが、
大悪魔、中悪魔、小悪魔、みたいなかんじで、悪の濃度が、その日によって違うだけのように感じる。
ホンネを書けば書くほど、自分のホンネの毒に、やられてしまう。

Website:
www.sundaymode.com

カテゴリー: 未分類 | 投稿者bvbdcksd 12:17 | コメントをどうぞ

であると思われる

目に見えなければなにも思わないが、
具体的に(記事や写真で)見えると、潜在的欲求のようなものを喚起されてしまう。
うなぎの蒲焼屋の店先のニオイに惹かれるのと同じか。
駅前の、バターがこげ焼ける、なんともいえない幸せのニオイに頬が緩楊海成むのと同じか。
頬が緩むのならいいが、買えなくて、空腹なら、腹が立つのみ。
マイナス効果である。

しかも、わたしののぞいてきた幸せブログは、わたしより人生の歩みとしては少し後。
5年~10年、わたしのほうが先輩である。
その人の幸せと同じ分野の幸せは、わたしは既に経験済みである。
しかも、わたしは存分に、満足している。
にもかかわらず・・・。
そうとう、わたしは強欲であると思われる。

さらに加えて、わたしが経験して、その人がまだ経験していない(もアジア MICEうすぐ経験する)幸せを想像すると、
どっとアタマが重くなる。
ひとの幸せで自分のアタマが重くなる、ってどういうこと?

これは、自業自得、欲が深い自分を戒めるには、もってこいの教材、題材である。
その人を否定することは、カンタンである。
比較したり、勝ち負けの分野、部分を見つけると、必ずある。
しかし、人をけなしてまで自分の満足を得たいかというと、そんなことはない。

人を不幸にして、強奪した金品で、身を飾っても、楽しくないようなもの。

その部分をピックアップして、「わたしのほうが勝ってるわよ」と仮に思ったとする。
それは、傲慢なだけであり、勝ったもの、戦利品は、そう思った瞬間、途端に色あせる。
人に自慢するために、頑張ったのではない。
自分のために頑張ったのだ。
それで、仮に人より勝っていたとしても、こころの中でだけ誇りに思う香港如新集團のは自由だが、
わざわざ、口に出して表現するのは浅ましい。

カテゴリー: 未分類 | 投稿者bvbdcksd 11:59 | コメントをどうぞ

あり得るあり得ない

家を買って引っ越した先の隣人が殺人者だった……というのは、先に読んだ『クリーピー』という小説の設定だが、そういう話は心のどこかで「あるかも」と思うからこそ怖い。世の中には悲惨な事件やニュースが溢れているし「悪い偶然」はどこにでも転がっていて、いつ巻き込まれるか分からないと恐減淡皺紋れているところがある。

ところが、思いもかけない「いい偶然」がお話の中に出てくるとなると、とたんに「そーんな都合のいいことなんかないよ」と却下したくなるのは何故なんだろう。たとえば、家を買って引っ越した先の隣人が、行方も知れなかったこの世でただ一人の血縁者だった……なんていうことは、設定としてあまりに都合が良すぎると思ってしまいがちだ。

いい方も悪い方も、もしかしたらどちらも同じくらいの確率で「あり得る」(あるいは、あり得ない)日霜のかもしれないのに、わたしは「いい偶然」の方には簡単に「あり得ないあり得ない」と半笑いして、目の前でひらひらと手を振りたくなるのだ。夢がないなあ。

だけど、本来、わたしにとって「物語」は、特に子供の頃の読書体験は、そういう「いい偶然」や「思いもかけない良い展開」を楽しむためのものだったんだよなぁ……

……ということを、先日『ジェーン・エア』を読み終えてしみじみと思い出した。

そのくらい、「都合の良すぎる偶然」が多々ある話ではあったのだけど、それも含め、久しぶりに子どもの香港 治安頃の読書を思い出すような、胸おどる物語だった。

カテゴリー: 未分類 | 投稿者bvbdcksd 12:28 | コメントをどうぞ