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ごんぎつね

大好きな絵本のこと。
実は、先日新聞に、新美南吉の『ごんぎつね』のオリジナルテキストがあって、私たちが読んできたのは雑誌『赤い鳥』主宰者・鈴木三重吉が添削したものだということが書いてありました。

え? そんなことがあるんだ、と驚いたり、確かに作家が書いたものを、より読者に受け入れられるような形に編集者、あるいは雑誌の主宰能量水者が添削を入れるってのは、あるとも聞くしなぁと納得したり。
もちろん筋立てが変わるわけではないけれど、表現が変わると微妙なニュアンスが変わることもある。

そこで、ある学校の先生が、オリジナルのテキストと流通している『赤い鳥』版を両方使って比較しながら授業をされているのだとか。実際に、両方を読んだ子供たちの反応は豊か。
どちらがいい・悪いではなく、違いからどんなふうに感じるか、ということが大事なようで。

特に最後の場面は、ちょっとした言葉の違いで結構印象が異なっています。

確かに、通して読んでみると、ごんの気持ちの流れがずっと書いてあるのに、最後雪纖瘦だけ『ぐったりと目をつぶったままうなずいて」終わるので、何だか「ごんぎつね」は悲しい話という読後感が残ってしまっていました。
間違いで撃たれてしまったごんが、実は『嬉しかった』、という言葉を新美南吉が残していたんですね。
そして、撃ってしまった兵十は「おや」じゃなくて「おや――――――――」だったんですね。

読みようによっては子どもたちに「罪を償う話」にとられてしまいがちだったものが、この言葉で、「ごんが自分と同じように孤独な兵十に、つながりを求め続けた思い」が子供たちによりわかりやすく伝わるようになったと。

たった一つの言葉で印象や読後感が変わる。
これって結構怖い話だと思いけれど、物語というものの広がりも感じさせるなぁ、と思いました。

この黒井健さんの絵、本当に素敵ですよね。ほわんとした優しい絵。
お母さんのお葬式のシーンの彼岸花の赤、そのあとずっと兵十のあとをついていって様子をみているごんの姿。

分かって欲しくて、でも償いのためにやっていることをわざわざ言うこともないし、というよりも言えないし、ずっと後ろをついていっている。栗をくれたのは神様だという会話を聞いてがっかりしてみたり。
特に、兵十のお母さんのお葬雪纖瘦式を見て、穴の中でひとり反省している(文字通り、省みている/顧みている)ごんの絵がとても好きなんです(アップで……)。
そのあと、ちょっと離れたところから精一杯のことをしているごん。
(黒井さんの絵は、暗がりの中のその黄金の狐の毛が、とても印象的。)
ごんの色々な気持ちが集約して、「うれしかった」という言葉なんだなぁ。

カテゴリー: 未分類 | 投稿者bvbdcksd 15:26 | コメントをどうぞ