才下眉頭,卻上心頭。秋風蕭殺人愁,顧影自憐,只映了曉風殘月人比黃花瘦。傷春悲秋,只為青絲幾縷獨為依人瘦。心是傷悲,何處訴,但求那人回頭一笑百媚生。故弄玄虛,胡說亂道,只為東施效顰。
知否?知否?應是綠肥紅瘦。舊夜依人笑,小樓昨夜又東風,恰似一江春水向東流。夜不能寐,挽耳緊緻說新語,只道離愁別恨。林花謝了春紅太匆匆,只是當時已惘然。無語可寄,貧乏枯池,也想寫出悲情。
物是人非事事休,只見新人笑,不見舊人哭。斜風細雨不須歸,千樹萬樹梨花開。池館收新雨。耿幽叢,流光幾點,半侵入戶。練螢不知詩人苦,門外撲來羅扇小。胡言亂語,上下不分,只為寫出離愁。
這是何苦?愁掉了白髮也寫不出淒美婉約的詞文。心若倦了,淚也幹了,這分深情,難舍難了,我一個人,只能廝守到老,無法面對。這是何苦?苦苦回憶也記不清深情到地老天荒的歌詞。可是我不願,不願就此放棄令人豔羨的華美樂章,即使不知所云即使空洞蒼白即使詞不達意即使文字散漫。
獨椅窗門空望月,柳影依依入月來。我要,我要怎麼表達這份深刻的寂寞與悲傷?秋,我是從來不會感懷它nuskin 香港的憂傷,古往今來,多少寫秋的文章,可獨獨我,沒有感覺,沒有感悟,沒有經歷,便沒有了秋的出口成章。這裏,南方的秋,是涼風陣陣,早晨有了冬的寒意,中午卻有了末夏的微熱。中午時分,陽光充足燦爛,灑滿窗臺,暖意融融。這可是詩人所說的秋?不是吧?他們詩中的秋是帶著悲苦與離愁,感懷與寂寥。小橋流水人家,枯藤老樹昏鴉,古道西風瘦馬,斷腸人在天涯。雖然學過這首詩,可是也忘記了文中的解釋是怎麼說的,會不會是詩人原是官員卻被貶荒野之地,時逢秋季,途徑如此蕭瑟之地,感懷命運多舛,人生高潮,人生榮華富貴已不在,身世可憐,觸景傷情,無限心酸與悲涼便造就這千古名詩。
其實我的憂傷,也可感動天地泣鬼神。寒雪飄飄入夢來,人去樓空忘前塵。我一個人,坐在公園的中央,感受著這淅淅瀝瀝的有雨,只是感到寒冷無比。何時感到夜並不漫長,只要安穩入睡,何時感到白天才是我真正的殺手。我一個人,棄了這場數學考試,跑到這公園裏掩面而泣,事事非非,剪不斷理還亂。想不通,道不明,對於那時的情感,只能用reenex膠原自生絲絲入扣還複來來形容。棄,這激昂的青春,棄,這花樣的年華,棄,這美好的前途。十年間物是人非事事休,舊事不堪回首明月中。流年已逝,光陰不再,一切的美好已成空。已近中年,膝下卻無兒無女,不能像正常人一樣工作,只是天天待在家裏,無所事事,虛度年華。每日對著電視電腦卻不知有何用處有何意義,書看不進,路,走不穩,每日忍受空虛無聊的生活。只道是:錦衣玉食在眼前,知否?知否?千般惆悵百般愁。
月別アーカイブ: 2016年10月
赤ん坊の簡易ベッドを片付けながら、まるで入院患者が退院した後の、病室清掃気分。
あちこちに踏みつけられた雑草や、ゴミや、靴の腋下除毛片方だけが落ちている、
地響きとともに、戦車が通り抜けた跡のよう。
長女一家が、お婿さんの実家に里帰り。
戦車まるごと、瞬間移動。
こちらは開放感だが、あちらのお家は大変だろうなあ・・・。
お気の毒・・・。
わぁわぁ、きゃあきゃあ言って喜ぶのは最初のあたりだけ。
運動会の一周目トラック。
あちらは、去年は長男さんご一家も帰省されたらしいが、
「今回はどうなの?」と長女に尋ねると、「来ないかも知れないらしい」との返事。
そりゃあそうだろうなあ。
長男一家は、遠方に住む、幼児一人と若夫婦。
次男一家は、これまた遠方に住む、乳幼児2人と若夫婦。(長女の更年期お婿さんは、次男)
近くには、近距離のところに嫁いだお姉さん(子供は幼児2人)が住む。
日ごろは、リタイアされたご夫婦だけの静かな暮らし。
そこへ、芋の子をごった返したような乳幼児とりまぜた、ごった煮状態での年末年始。
台所、大変だろう。
あちらのおかあさん、目が回るだろう。
食堂、全員、揃って食べることが出来るのだろうか?
お風呂の順番は?
最後の人は、お湯の状態は? (量、質、温度。いっそシャワーで。温もれないけれど)
お年寄りが同居していないから、まだマシだ。
若い、熱い、次から次へと起こる用事で、熱気と混沌の、ごった返し。
そうやって親きょうだいを巻き込んで、子育寰宇家庭てしていく。
いちいち気を使っていては、やっていられない。
一人で抱え込んで頑張っても、パンクする。
自分もずいぶん、助けてもらった。
直接、手助けできないお年寄り(曾祖母)は、子育ての足を引っ張らないよう、自分の健康に気をつける。
なので、まったく気が抜けて、やる気がない時や、友人に長い長いメールを送った後や、
時間がない忙しない余裕のない時にでも、なぜか、無理澳洲旅遊やり投稿している。
一種の変わり者か?
通常、ばりばりに気力をたたえ、気の緩みのない、どこに出しても恥ずかしくない力作をお届けするのが好ましいかと、考える。
が、自分のブログは、素人ブログであるし、家賃も月216円しか払っていないので、
(わずかとはいうものの、一応、有料です)
お客さんの入りや、収支状態も気にせず、道楽・殿様商売に徹することができる。
ああ、幸せ。わたしは、ブログが、大好きなのだ。
とは言え、去年下半期あたりから、しばらく、休んだり書いたり、詰まったり開通したり、の不定期状態が続いていた。
安モノの機械(わたしのアタマ)でも、多少、故障したり、感情がA股ETFあったりするようだ。
自分にとって、損得がないので、他人にとっても損得がない(だろう)。
そう思うと、なんだか肩の力がすっと抜け、同時にアタマの中身も急に薄く軽くなってきたように思う。
最近、自覚のある認知症状が多すぎて、今では、通常モードの基準を、認知モード基準にスライドしている。
基準を甘くしている。
すると、けっこう、健全な毎日を過ごせる。
あら、不思議。
どっちが健全なんだか。
(おふざけ認知表現は、深刻な認知症の方や、ご家族にとっては、禁句ですね)
次第次第に自分も、暗闇の世界に突入か・・・などと書いたとしても、
これまた、書いた本人もやたら暗いし、読む人も、まったく出口忠於自己のない重々しさを共有させられることになるし、
やめます。今日のところは。