弘化四年、この年の鶴蔵達は甲府から信州へと長期巡業に出ていた。途中たちの悪い雲助に付け狙われたりと厄介なこともあったが、概ね興行は成功を収め、ここ七久保の舞台も盛況のうちに幕を閉じた。
鶴蔵さん、お疲れ様でした!今日の舞台も素晴らしかったですよ!
千秋楽の舞台が終わった直後、近くで料理屋・柳川屋を営んでいる善五郎が鶴蔵の楽屋にやってきて鶴蔵にねぎらいの言葉をかける。その言葉に舞台化粧を落とした鶴蔵はほっとした笑顔を向けた。
ああ、善五郎さん。いつも舞台を見に来てくれる上に差し入れまでありがとうよ。江戸の味を懐かしむ若い衆が殊の外喜んでいるんだ
それぞれの土地の美味をありのまま愉しめる鶴蔵と違い、若い役者の中には長旅に飽き江戸の味を懐かしむものも少なくない。その事を鶴蔵が善五郎に言ったら、『以前出稼ぎで江戸に行ったことがありますので』と江戸風の鰹出汁と醤油が効いた煮物や蕎麦を差し入れてくれるようになったのである。
特に収穫時期に当たった新蕎麦は好評で、『江戸で食べるものより美味い』といつも不足するほどであった。
いえいえそんなことはありませんよ。うろ覚えの味で本当に恐縮で
善五郎は照れながら頭をかく。しかしそんな『うろ覚えの味』で満足しないのが善五郎の前にいる男である。
だけど、俺としては善五郎さんの味が食べたいんだよなぁ
すると善五郎は喜色満面の笑みを浮かべ、手をぽん、と叩いた。
そう来ると思いました。今夜辺りどうですか?月見をやりますので宜しかったら匡蔵さんと一緒に。ただちょいと訳ありでお若い方の席がご用意できなかったんですよ。その代わり『お江戸の味』を宿の方へ差し入れさせていただきますので
おう、そりゃいいな。若い奴らも厄介な年寄り抜きのほうが羽を伸ばせるだろうし。じゃあ匡蔵や若い連中には俺から言っておくよ
承知しました。では寒くないよう支度をして夜にいらして下さい。七久保の夜は冷えますので
確かに季節は晩秋の九月、確かに夜になると寒いだろう。
ああ、じゃあ暮れ六ツにそっちに行くから
ではお待ちしておりますね
善五郎は嬉しそうな笑みを浮かべたまま、鶴蔵の楽屋を後にした。