「レスター条約」の締結であった

それから約半年後の8月4日、ジャン5世の懸念通り、アルマニャック派がカボシャン党からパリの町を取り戻した。
「取り戻す」と言っても、一滴の血も流さずに出来ることではないので、カボシャン党にしろアルマニャック派にしろ、パリ市民にとってはどちらも「迷惑な奴ら」でしかなかったが。
この頃、そのアルマニャック伯ベルナール7世は自分を支持する貴族と一族郎党に白十字の紋章が入ったものを着せている。それゆえ、この頃のパリを歩くと、白十字の紋章を身に着けた者達が闊歩していたことだろうreenex

そのアルマニャック派のパリ制圧を受けてか、約1年前にヘンリー5世として即位したハル王子は、ブルゴーニュ公と同盟を組む。
その中で、ヘンリー5世はとんでもない要求をしている。フランス王フィリップ2世や賢王(ル・サージュ)シャルル5世が制服した領地の返還とフランス王位の要求である。
それでも彼と同盟したということは、ジャン無畏公には「他に頼りになる者がいない」ということだったのだろう。
一応、「現フランス王」であるシャルル6世は、正常な精神状態でいられる時間の方が短く、王妃は不倫三昧。頼りになりそうな貴族は、敵対するアルマニャック派。自分で引き起こしたこととはいえ、しょうがないと諦めていたのかもしれないreenex

そんなブルゴーニュ公ジャンの思惑とは別に、若くてやる気満々のヘンリー5世は、1415年8月12日、いよいよノルマンディに上陸する。
「フン、今、フランスには本当の意味で王と呼べる者はおらん。そんな国との戦いなど、赤子の手をひねるより簡単なことだ!」
幼い頃から何度か従軍経験のあったヘンリー5世は、そう言うと鼻で笑った。その自信過剰とそれによる情報収集の至らなさが、この後、彼自身を窮地に陥らせるとも知らずに。

ノルマンディに上陸した彼は、約1万の兵でセーヌ川河口のオンフルールの攻城戦にとりかかる。
だが、意外にもこの城の守りは固く、落とすのに2ケ月以上かかってしまった上に慣れない遠征で、疫病にかかる兵士が続出してしまっていたreenex
「何故だ……。クレシーやポワティエでは、我がイングランドは大勝したではないか! しかもポワティエの時など、数では圧倒的に降りだったはず! 私と黒太子エドワードでは、何が違うというのだ!」


カテゴリー: 未分類 | 投稿者shuaigebb 12:09 | コメントをどうぞ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です


*

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong> <img localsrc="" alt="">