月別アーカイブ: 2016年12月

朔良にる家

汗をかいて臭っているかもしれないと、頭の片隅にほんの少しよぎった里流の考えはあっさりと消滅した。
妄想の中の彩と同じように、傍に居る彩は優しく里流を抱きしめ、頬を撫でた。ばくばくと心臓が高く跳ね上がる。

ドラマの中の大事な場面のように、彩はそっと近づき里流の唇に軽く触れるだけのキスをした。
がんがんと自分の耳にまで聞こえる激しい鼓動が、もしかすると彩の耳にも聞こえているだろうか。唇同士が触れただけのキス一つで膝が震え、思わず腕に縋った里流を彩はふざけて揶揄した。

「ははっ、里流。耳まで真っ赤だ。」

「……夕陽のせいです。それに、初めてじゃないし。」

「そうなのか?俺は里流はそう言う事には一切縁がないと思ってたぞ。」

「……夢の中ですけど……」

小さくつぶやいた里流の頭を抱えて、いつものようにごんと小突いて彩は笑った。

「じゃあ、これで何回目だ、里流。俺と何度キスをした?」

「え……っと。7……8……?」

「9回だ。」

真剣に指を折る里流の頬に、彩は武骨な両手で触れた。もう一度、素早く唇で触れて、彩は約束した。

「また練習に顔を出す。朝のランニングは、これからもずっと続けるからな。寝坊するなよ。」

「はい!」

去ってゆく彩の影が見えなくなるまで、里流はその場に立っていた。

「……彩さん。ああ……どうしよう。夢みたいだ……」

幸せな余韻に浸りながら、頬を染めた里流がゆっくりと部室に戻ってゆく。

その時、自転車置き場の影から、火を噴く嫉妬の視線で背中を見つめる少年がいたのに、里流(さとる)は気付かなかった。
そこにいたのは、彩の遠縁でもある陸上部の織田朔良(おださくら)だった。
体育館裏の陸上部の部室に行くには、自転車置き場の脇を通らなければならない。
二人の交わす言葉を聞き、その場に立ちつくした織田とって、彩(ひかる)は幼いころから特別な存在だった。

「……なんで、あいつなんかと……どこがいいんだ、あんなやつ。ぼくの方が、ずっと前からお兄ちゃんの事、好きだったのに。」

以前、織田彩との話に出てきた遠縁の少年は、幼いころから彩を慕っていた。
進路も迷うことなく、彩の後を追ってこの高校に入学してきたくらいだ。部活は違っていたが家も近く、時々は夕ご飯も一緒に食べ族ぐるみで付き合いのある親戚のお兄ちゃんだった。自分はいつも彩の特別な存在だと、朔良は勝手に思っていた。

カテゴリー: 未分類 | 投稿者pealou 13:11 | コメントをどうぞ

に仇なき鎖着こんで

容保は当初、在京の諸藩および洛内外に「言路洞開」を布告している。
これは言うなれば、上の者が下の者の意見を広く聞き、話し合いで結論を出す事であった。
公明正大な容保らしく、どのような相手であろうとも深く意見を聞け嬰兒揹帶ば分かり合えるという姿勢を見せたわけだが、相手が悪すぎた。
寛仁な容保をあざ笑うように、事件は起こる。

足利将軍木像梟首事件(京都等持院にあった室町幕府初代将軍?足利尊氏、2代?義詮、3代?義満の木像の首と位牌が持ち出され、賀茂川の河原に晒された事件)が、それであった。
この日を境に、容保はそれまでの優柔ともいえる方針を一転させた。
捕縛された尊王攘夷派の討幕の意思を知った容保は、ついに激怒する。

「足利将軍等が朝廷にそむいたという理由で、木像の首を晒すなど言語道断である。彼らは天皇から直々に官位を賜っているのだ。逆臣などではない。」

詮議の調書に目を通した容保は、怒りのあまり顔色を変えた。
彼らは、いずれは徳川将軍の首もこうなるぞという意味を込めて、木像の首牛證熊證を晒したとうそぶいた。
普段穏やかな顔しか見せない容保の、迸る激高に控える家臣すら驚いた。
まなじりをあげて容保は毅然と、不逞浪士掃討を言い放った。

「よいか。尊王攘夷派は、天下を無用に騒がせているばかりか、畏れ多くも公方さまに仇なすつもりなのだ。悪漢どもを、このままには捨ておけぬ。すぐさま処断せよ。」
「はっ!既に潜伏先の目星はつけております。」
「急げ。捕り物を気取られて、洛外へ逃走するやもしれぬ。会津の名に懸けて、一人たりとも逃すなよ。」
「はっ!」
戦支度をした、一衛の父と直正もいた。

「直正。やっと手柄を上げる時が来たな。」
「はい、叔父上。殿のお役にたつときがやっと来ました。」
「存分に働けよ。」
「はい。腕が鳴ります。」

互いに故郷の話は一切しなかった。
穏健な容保をあざ笑うように、尊王攘夷を振りかざして無頼を働く不逞浪士の所業に、歯噛みしな冷氣機がら耐えてきた至誠の士達がついに一斉に動いた。
洛内外に潜んだ賊を炙り出し、一気加勢に捕らえる段取りを立てながら、会津藩士は京の町を走った。
カチャリ……
物陰に潜んで鯉口を切る音が、静かに闇に響いた。

カテゴリー: 未分類 | 投稿者pealou 13:15 | コメントをどうぞ