汗をかいて臭っているかもしれないと、頭の片隅にほんの少しよぎった里流の考えはあっさりと消滅した。
妄想の中の彩と同じように、傍に居る彩は優しく里流を抱きしめ、頬を撫でた。ばくばくと心臓が高く跳ね上がる。
ドラマの中の大事な場面のように、彩はそっと近づき里流の唇に軽く触れるだけのキスをした。
がんがんと自分の耳にまで聞こえる激しい鼓動が、もしかすると彩の耳にも聞こえているだろうか。唇同士が触れただけのキス一つで膝が震え、思わず腕に縋った里流を彩はふざけて揶揄した。
「ははっ、里流。耳まで真っ赤だ。」
「……夕陽のせいです。それに、初めてじゃないし。」
「そうなのか?俺は里流はそう言う事には一切縁がないと思ってたぞ。」
「……夢の中ですけど……」
小さくつぶやいた里流の頭を抱えて、いつものようにごんと小突いて彩は笑った。
「じゃあ、これで何回目だ、里流。俺と何度キスをした?」
「え……っと。7……8……?」
「9回だ。」
真剣に指を折る里流の頬に、彩は武骨な両手で触れた。もう一度、素早く唇で触れて、彩は約束した。
「また練習に顔を出す。朝のランニングは、これからもずっと続けるからな。寝坊するなよ。」
「はい!」
去ってゆく彩の影が見えなくなるまで、里流はその場に立っていた。
「……彩さん。ああ……どうしよう。夢みたいだ……」
幸せな余韻に浸りながら、頬を染めた里流がゆっくりと部室に戻ってゆく。
その時、自転車置き場の影から、火を噴く嫉妬の視線で背中を見つめる少年がいたのに、里流(さとる)は気付かなかった。
そこにいたのは、彩の遠縁でもある陸上部の織田朔良(おださくら)だった。
体育館裏の陸上部の部室に行くには、自転車置き場の脇を通らなければならない。
二人の交わす言葉を聞き、その場に立ちつくした織田とって、彩(ひかる)は幼いころから特別な存在だった。
「……なんで、あいつなんかと……どこがいいんだ、あんなやつ。ぼくの方が、ずっと前からお兄ちゃんの事、好きだったのに。」
以前、織田彩との話に出てきた遠縁の少年は、幼いころから彩を慕っていた。
進路も迷うことなく、彩の後を追ってこの高校に入学してきたくらいだ。部活は違っていたが家も近く、時々は夕ご飯も一緒に食べ族ぐるみで付き合いのある親戚のお兄ちゃんだった。自分はいつも彩の特別な存在だと、朔良は勝手に思っていた。