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奉行のしいこと

「直さま……。一衛は、いつまでも直さまがあやした小さなややではありませんよ。ご講義で何度も褒章をいただいているのですから。こんなご時世でなかったなら、元服も済ませている年齢です。」
「あ、これは……すまぬ。」

結局、直正はもう一度頭を下げる事になった。
さすがに乳の匂いはしないが、口をとがらせた幼さの残る一衛の顔を見て居ると、可愛くて仕方がない。
白虎隊は前線には出したくないと言った軍事気持ちがよくわかる。

直正はその後、請われるままに領内各地を転戦した。
どこも負け戦続きで、まともに闘っているのは、京都以来行動を共にする新撰組と、佐川官兵衛率いる部隊だけだった。

「相馬殿。貴殿は隊を引き連れ、日光口に行けとの伝令じゃ。」
「日光口?」
「山川大蔵殿の隊と合流せよとだけ書いてある。向こうに行けば、詳がわかるだろう。」
「はい。では、鉄砲隊の残りを率いてすぐに出立いたします。」

親藩、二本松藩では年端の行かない13歳の少年たちが、激戦の前線へと駆り出され壮絶な死を遂げている。
母親たちは前夜、咽びながら父や兄の衣服を縫い上げし、小さな息子たちを励まして戻れぬ戦場に送った。
大刀も抜けないほど小さな彼らは、互いに背負った刀を抜き合い敵陣に切り込んだ。
新政府軍の新式銃の弾丸は、彼らが身を隠した畳を貫通し小さな命を無下に奪った。
二十歳そこそこの若い隊長が倒れこんだ腕の下に、彼が必死にかばった幾つもの骸が転がった。
残酷な光景だった。何故、会津はこれほどまでに無謀な戦いを回避しなかったのか。
武士としての体面も確かにあったが、むしろ当初は降伏恭順の道を探り続けたが、成功しなかったというべきだろう。
新政府軍、特に長州藩は、明らかに会津に深い憎しみをもって接していた。
容保は会津を守るために自分一人で罪をかぶり首を差し出しそうと、嘆願書まで書いたが受理されなかった。
元よりそれは、誇り高い藩士たちが許すはずもなかった。

会津藩に残されたのは、朝敵、逆賊といういわれのない汚名を晴らす道だけだった。
降りかかった国辱をそそぐには、どれほど不本意でも仕掛けられた戦から逃げるわけにはいかない。
それまで散々尽くしてきた幕府の為でもなく、徳川宗家の為でもなく、最後に会津は会津の誇りを守るためだけに戦う道を選んだ。
藩兵たちは容保と思いを一つにし、最後の一兵になるまで戦う覚悟を決めていた。

カテゴリー: 未分類 | 投稿者passioncool 15:31 | コメントをどうぞ