サイゴン陥落

どうもキッチーです。
今年は戦後70年の節目の年だとよく言われますが、もう1つ大切な節目の年でもあります。
それは1975年4月30日。ベトナム戦争終結から40年の節目であります雋景探索40

ここではベトナム戦争を軽く振り返って見ましょう。

フランスの植民地だったベトナムが独立を果たそうとしたのは、第一次インドシナ戦争に遡ります。
元々フランスの植民地であったインドシナに、第二次世界大戦時日本軍が進駐、軍事的には日本が政治的にはフランスが支配を続けるという構図が出来上がりました。
しかしフランスも一枚岩ではなく、植民地保持を訴えるヴィシー政権に対し、シャルル・ド・ゴール率いる自由フランスは戦後の現地人の自治権拡大を約束しました。
そして1944年自由フランス主導のフランス共和国臨時政府がパリ奪還をしたのに伴い、1945年3月日本がフランス領インドシナ政府を解体、フランスの植民地支配の終結を宣言しベトナム帝国が独立を宣言しました。
更に1945年8月日本軍の無条件降伏を受け、ベトナム独立同盟会がベトナム帝国のバオ・ダイ皇帝を退位させ、臨時ベトナム民主共和国政府を成立、9月2日日本の降伏文書調印を待って、改めてベトナム民主共和国政府の独立を宣言しました。
しかしながらインドシナには、戦勝国である連合国進駐軍が展開し、北緯16度線以北が中国の国民党軍、以南が英国軍に割り当てられ、再びフランス軍が全土に展開するのを待ちました。
その後1946年、ベトナム独立同盟会とフランスの間でハノイ暫定協定が締結され、フランス連合インドシナ連邦の一国としてベトナム民主共和国の独立とトンキン地方のフランス軍駐留を認める一時的妥協が成立しました。
その後もベトナム民主共和国とフランス共和国臨時政府との間では独立交渉が行われましたが、フランスはベトナム南部に自らの傀儡政権『コーチシナ共和国』を成立させベトナムとフランスの対立軸は尚一層深くなっていきました。
ベトナム側はホー・チ・ミン氏を中心とした代表団をフランスのフォンテーヌブローに送り独立交渉を続けましたが、相互譲歩は行われずこの交渉は決裂に終わりました。
これを契機にベトナム独立同盟会は独立戦争長期化に備えて、元日本軍将兵を教官とした軍事学校を設立、近代戦闘に対処出来る将校の育成に力を入れました。

ベトナム側とフランス側の小競り合いは数年続き、遂には外国勢力の参加がなされます。
1948年フランスはコーチシナ共和国を廃して旧帝国最後の皇帝バオ・ダイを国家主席とする傀儡のベトナム国を成立させ正当性を主張。これにアメリカが力を貸します。
1950年にはソ連と前年成立した中華人民共和国がベトナム民主共和国(ホー・チ・ミン政権)を正式承認し、武器援助を開始しました。
こうして第一次インドシナ戦争は、単にベトナム人民の独立運動ではなくなり、東西冷戦の一部となりました。
ところが同年6月朝鮮戦争が勃発すると、米中ソはそちらに力を注ぎインドシナ戦争はそっちのけになりましたNeo skin lab 呃人

一方その頃フランス本国では自国民の兵士がこれ以上海外で傷つく事を嫌う厭戦ムードが高まり、部隊の大半はフランス外人部隊や士気の低い植民地兵によって構成されるようになりました。
その後なんだかんだあってフランスはディエンビエンフーの戦いに敗北、ベトナム各地からの撤退を余儀なくされて、事実上の敗戦が決定的となりました。

敗北したフランスはベトナム民主共和国と和平交渉を開始し、関係国の間でジュネーヴ協定が締結されました。
これによりひとまず北緯17度線を境に両軍を分離して1956年にべトナム全国統一選挙を行うことが定められた訳ですが、話は一筋縄にはいきません。
アメリカが協定に参加せず、統一選挙を拒否し南に傀儡政権ベトナム国を存続させたのです。
フランスは自ら持つアフリカの植民地の独立戦争の激化に伴い、アジアまで手が回せなくなり、インドシナをアメリカに肩代わりさせ撤退。アメリカは自分の影響力を強く持つベトナム共和国(南ベトナム)を成立させました。

と、ここまでが前段階の第一次インドシナ戦争です。
大分端折りましたが、第二次インドシナ戦争(ベトナム戦争)はもっと端折りましょう。

南北ベトナムの分断、ベトナム戦争が東西両陣営の冷戦の代理戦争になった経緯は上記の通りです。
北ベトナム、ホー・チ・ミン率いるベトナム民主共和国側は、アメリカの傀儡国家南ベトナムを打破し、ベトナム人による南北ベトナム統一独立国家の建国及び植民地支配からの脱却を目指したのです。

さてではなぜアメリカは南ベトナムに拘り、ベトナムの全国統一選挙を拒否したのでしょうか。
これはホー・チ・ミンが共産主義イデオロギーの元一党独裁の政治体制を目指し、その体制の下でまともな民主的選挙が行われるとは到底考えられなかったからです。
そしてベトナム全土が共産化すると、その波は周辺国まで広がる、所謂ドミノ理論を恐れての事でした。
しかしアメリカの支援を受けていた南ベトナム政府も、けして政権運営が上手く行ったとは言えず、独裁色が色濃く出たり宗教弾圧をしたりと、中々の困り者でした。
アメリカはアイゼンハワー大統領の時に軍事顧問団を南ベトナムに送り、ケネディ大統領の時に正規軍の派兵を進め、ジョンソン大統領の時に大規模な正規軍を送ってベトナム戦争に積極的に介入しました。

しかしアメリカ本国はもとより、国際社会全体が反戦ムードに包まれ、国連との関係も劣悪になる中、1973年のパリ協定を経てニクソン大統領は派遣したアメリカ軍を撤退させました。(この間に本当に色んな事が起きているのですが詳しく知りたい方はWikipediaまでどうぞ)
その後も南北ベトナム軍どうしの戦闘は続きますが、現在のベトナムの経済拠点ホーチミン市、当時の名でサイゴンにあった南ベトナム大統領府の門を北ベトナム軍の戦車が突き破って、軍人政府関係者が一斉に逃げ出す様子が全世界にTV放映され、ベトナム戦争は終結に至ったのです。これがサイゴン陥落です。
南ベトナムの大統領府だった場所には今でも戦車が飾られています。今から40年前、1975年4月30日の出来事でした。

ベトナムは今でも社会主義国ですが、改革開放路線を採り多くの日系企業が進出していますし、今年の7月にはベトナム最高指導者のグエン・フー・チョン共産党書記長がホワイトハウスでオバマ大統領と会談しましたね。
歴史は一歩ずつ動いていると思います。

最後に日本で起きた事を少し。
『新宿騒乱事件』1968.10.21
ベトナム戦争の最中、日本がアメリカ軍に燃料を供与している事実が明るみになり、その燃料が新宿駅を通る貨物列車に拠って運ばれている事を知った反戦運動活動者(敢えて左翼とは書きません)が、新宿駅を焼き討ちにした事件です。
今では当たり前に行われている自衛隊の活動の1つですが、当時の活動家達にはどうしても許せなかったのでしょうね。

『朝鮮特需』1950~1952
GHQの命によりアメリカ軍から兵器や砲弾などの生産を受注・供与して、大金を稼ぎました。

今の安保法案のやり取りが馬鹿らしくなりますね。
社民党の福島瑞穂議員が武器弾薬の供与は消耗品に限るとあるがミサイルはどうなのかと国会で質疑をし、中谷防衛大臣がミサイルは消耗品に入りますと答弁しました。
これは恐らく地対空ミサイルパトリオット(正確にはペイトリオット)やイージス艦の艦対空ミサイルSM-3を指しての事と思いますNeo skin lab 好唔好
湾岸戦争の時、よくイラク軍のトマホークをパトリオットが迎撃したとニュースになっていましたが、あんなのは嘘っぱちで、当時のパトリオットの性能はまだまだ命中精度の低い物でした。
果たして現在のイージスシステムを使った迎撃体制はどんなものなんでしょうね。こればかりは戦闘が始まってみないと分かりません。

ちょっと余談が過ぎました。
今回は自分がまだ生まれてない時代の事について、自分で勉強した限りの事を書きましたが、間違いや不備な点が御座いましたらお詫びして訂正いたします。
次回はもっと緩い内容で行きましょう。ちょっと疲れました。


カテゴリー: 未分類 | 投稿者biubiuplpl 11:50 | コメントをどうぞ

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