でこそこそと

この時を境にというわけではないのですが、以前からうすうす思っていたあることが強化されたのだと感じています。
それは偏見と主観は根底が一緒であるということです同珍王賜豪
偏見も主観も善悪、正解不正解で測りきれるものではないということです。どんなきれいごとを並べたところで必ず人は持っているということです。

ですが偏見と主観は根底は一緒だと思いますが異なる部分があります。
それは偏見は個人の倫理が変われば無くなったり新たに持ったりしますが主観は倫理が変わっても変わることはありません。偏見は社会性を持っていますが主観は個人の脳、いうなれば人の五感という感覚、そして感性に従っての差別化なので社会性を持っていません。主観はもっと根底の個人の 好き嫌い 愉快不愉快 という本能で物事を差別化するものです。
例えば いい匂い いい味 いい感触 いい音 いい景色 という五感、又 この犬可愛い このアニメは感動する などの感性は個人の主観であり倫理が変わったところで変わらないのです。

僕は偏見や主観を否定するつもりはありません。というより否定しても偏見や主観は存在するものなので否定のしようがないのです。主観に関してはもしこれなければ愉快を感じることはありませんしなにより主観が感動を生み出すものだと思っています。

ただ偏見や主観を言葉で発したり表現するということはあまり好ましくないと僕は思うんですよね。
偏見は言うまでもありませんが主観を言葉で発したり表現するということは個人の感覚、価値観の主張、押し付けにしかならないからです。
極論を言うと主観では カラスは白い と言い張ることができるのです。主観には 正解不正解 がないのでなんとでも言えるのです。
例えば食べ物に関して言うと 美味い 不味い は個人の好みによって異なります。美味い 不味い に 正解不正解 はありません。別に 美味い 不味い と感じることにケチをつけるわけではありません。僕だって 美味い 不味い を日常茶飯事で感じています。ただ客観的正当性を証明することができない対象のものや事柄を主観で評価して他人に伝達することなどしなくてもいいと思うんです。まあこんな 美味い 不味い が商業ベースとなると宣伝というものになるのはわかっているんですがね防脫髮產品

一般の事柄についてもですが特に芸術家やクリエーターなど感性に訴える価値や感動を創造する方々(料理人もそうですよね)の創り出したものに対しその作品、上澄みを個人の主観で評価して 観た聴いた食べたを評価できる自分はすごいだろ的 そんなすごい自分を評価して的 なその プチヒーロー根性 を誇示、主張することって如何なものかと思うんです。
芸術家やクリエーター、料理人などは確かに評価されるのが仕事ですよ。だからといってそれに乗じて主観で評価して オレ様 を誇示するなんて奴はある意味人格が欠損していると僕は思うんです。主観は黙って心の中にそっとしまいこんでおけばいいと思うんです。個人の主観をあえてメディアにのせたりするなんてのは自己満足以外になにがあるのでしょうかね。
主観で 上手い 下手くそ の 上から目線評価 をするからには自分が今やっている仕事について他人からその仕事の表面だけを見られて主観で かっこ悪い ウザい などの 上から目線評価 されても仕方がないということを受け入れるだけの覚悟があるんでしょうかね。

仕事ってのはどの仕事でもお客様あっての生業であるので商業ベースでのシステムの中ではその業界ごとに何とも言えないことはあるのでしょうが、主観で恣意的に評価をすることされることがないとは言えませんしね增強記憶力


カテゴリー: 未分類 | 投稿者biubiuplpl 12:20 | コメントをどうぞ

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