月別アーカイブ: 2017年6月

おかあちゃんは、もうあかん・・・

朝になると、電話が鳴る。
忙しいときだったりすると、げげっとなる・・・
母からだ。

出ない時は、留守番電話に、びっしり録音が並ぶ。

今朝は、電話に出た。

「おかあちゃんは、もうあかん。
なんにも、できひんようになってる。
ご飯の支度も、あれも、これも、できひんようになった。
今日、(わたしの)孫を連れて、○子(わたしの姉)といっしょに、来て。すぐ来て」

悲痛な叫び。
(毎度のことだか)

よくよく聞いてみると、すでに、30分ほど前に朝食は兄と済ませている。

「なんや、もう朝食が済んだんやったら、今日来るヘルパーさんに、
昼食をお願いしたら?」

なんたら、かんたら、うんぬん、かんぬん。
少し冷静を取り戻してきたようだが、
次第に、母から出来の悪い娘への、ちょっとお説教っぽい流れに雲行きが変わってくる。

「あなたは、なんにもせんと、じっとしているだけやけど、
あんな、いい旦那さんはいないから(と、ここでホメまくる)、
もっとあなたは、旦那さんに尽くしたら、もっともっとよくなるよ。・・・うんぬん、かんぬん」

はいはい、そうですね。
はいはいはい、はいはいはい、はいはいはいはいはい。

なんで、いつも、最後は説教になるかな~。
でも、わたしに電話をかけてくるうちは、まだアタマがしっかりしているということだからね、
と、本人も言っていた。

近々、孫を連れて顔を出す約束をして話が終わった。
今日も姉が顔を出すようだし、ついさきほど、兄と朝食をとったばかりなのに、
まるで、遠く離れた孤島の牢屋にでも入れられ、孤軍奮闘しているかのごとく。

まあ、説教してくれるうちが、華かなあと、ありがたく電話を切った。

カテゴリー: 未分類 | 投稿者nbvkjud 13:58 | コメントをどうぞ

怨念との闘い

わたしは、ワラ人形が大好きである。
いくつも、いくつも持っている。
ワラ人形に打つ五寸釘も。
呪いのワラ人形。
納得いかない想いは、はけ口を塞がれ、歪んで怨みに変わる。
いわゆる、怨念というもの外匯投資

人は誰でも思い通りにいかないことは、あるはず。
ひとつもない、と胸を張って言っている人がいるとしたら、超人ウルトラ人間で、普通の暮らしはしていないだろう。
超人としての地位を確立しているか、あるいは、とてつもなく嫌われているかのどちらかだ。

一般的な普通の人は、達成できない充たされない想いを抱えていると思う。
「執念」という形に変わったり、頑張り克服するとか、自分とのやりとりで、調整するのだろうけれど、少し、さじ加減を間違えると、事件沙汰になったりする。

私は、事件にはならない。
消化も昇華もできないまま、悶々とワラ人形を打ち続ける。
そして反逆のチャンスを狙う。
その時が来るのをじっと待つ。

そうこうしているうちに、別件が発生したりして、ワラ人形を右手に持ちながら左手には大黒様(七福神でもいいけど)を抱えたり、幸せ色と混ざったりして、ワラ人形案件を処理していないまま、船は進む。

新しい大黒様と、パサパサになったワラ人形、そのうち、ワラ人形は乾燥して、解けて、ばらばらになってくる減淡皺紋
大黒様も、大小あったり、ズッシリ重かったり、ひとつだけではなく、リスクヘッジも効く。

ワラ人形の結論を突き詰めないまま、日々、進行していくと、いつしかワラ人形が消えている。
しかし、パラパラと解けたワラが一本、二本と重なり集まると、新しいワラ人形になる。
一台一台、車が合体してパーツになって出来る巨大なロボ、トランスフォーマーのように。
日頃はバラバラなのだが、ある日、なにかのキッカケで、集結して怪物になる。

プラスとマイナス、幸せと不幸。
ちょっとした加減で、形が大きく変わる。
コントロールできない魔物になって、一人歩きする。

その分、幸せの大黒様は、いくつあっても、コントロールできない魔物にはならない。
せいぜい、幸せすぎて退屈、みたいな贅沢な虚無感が生まれるぐらいか。

わが母。
幸せで、順調に年を重ね、アタマの中身も真っ白け。
(自立して生活できるレベルには)なにも(重要なことは)覚えてなく、考えられなく、あるのは今、この瞬間だけ。耐久持続時間は五分。
でもその瞬間が、幸せなら、いいか。
過去の頑張ったことや、私たち子供を泣かせたことなど、ミジンも覚えていない。
「おかあちゃんは、あんたらに、そんなにひどいこと、したんか」
と、ニコニコして言う。
全く覚えてないから、気楽である。
良いことも、悪いことも覚えていない。
今、覚えているのは、母が幼かった頃のこと。
きょうだいや、両親、祖父母に囲まれた平穏な日々。
戦争もあっただろうに、全く記憶に残っていないようす。
(その割りには、母のノートに、この度のフランス大統領選の立候補者の名前や経緯、結果、ニュースソースが書かれていて、びっくり)

姑は、それに比べると、苦しかったことや、悲しかったこと、悔しかったことばかりが強調される水機價錢

姑は、おそらく、我慢してきたのだろう。
母は、我慢してこなかったのだろう。

周りから良い人と思われ慕われる姑。
周りに困惑され、好きなようにしてきた母。
人生の最後に、評価は高いが不満ばかりが残るのと、好かれはしないが幸せな気持ちと、どちらがよいか。

これは両極端な例である。
ほどほどのミックス調整型が、良いと、わたしは思うのだが、、、
DNA的には母の血を色濃く受け継いでいる、悪い予感。
「人からの評価は低いが、自分は楽しい」が妥協案としては、まあいいと感じるが、細いワラだけになった元ワラ人形をいくつも持っているわたしは、直情型の母みたいにはなれないと予想する。
かといって、姑のように賢夫人ではないので、我慢している割りに我慢が活かされていない。
どうせ活かされていないのなら、評価されないのなら、母のように我慢せず、当たり散らしているほうが精神衛生上、良いのだろうが、わたしには何の役にも立たない理性がある。
役に立たない理性など、いっそ無いほうがスッキリする。
中途半端な人間である。

カテゴリー: 未分類 | 投稿者nbvkjud 13:04 | コメントをどうぞ