月別アーカイブ: 2017年5月

他人の目

わたしのブログ。
他人さまが、穿(ほじく)り出してくださった過去の記事を読んだ。
これ、マイブームだといっても、いつも手に汗にぎる。ヒヤヒヤ。

中身。キツイ~。
問答無用で、ビシーっと斬っている。
愛がない。
そう感じた。
一刀両断。自分ごと、他人まで斬っているcall 輪

「気持ちよい」を通り越して、痛かった。
ということは、ああいう記事を書いた頃から時が経って、今のわたしは少しは愛に目覚めたからだろうか。
いやいや、老化して、自分を労わるついでに、他人も労わっているのだろう。
自分に甘く、他人に甘い。
基準を甘めに設定して、自分を救済しようとする意図が見え見え。
美しき愛の本質なんぞ、お知りになりたい方は、マザーテレサに聞いてください。

自分をとことん知りたい場合は、自分が大好きなもの、コト、愛してきたもの、コト、してきたこと、したいこと、
それを追究すると、見つけやすいそうな。
魂を高めるもの、こころを満たし喜ばせたもの、夢中になったもの、それは、なんだったのか。

間違っても、寂しいからといって、トモダチとつるんでも、本当の自分は見つからないんだって。
わたしの友人の一人、ニーチェ君が言っていた。(→書いていた)

わたしの友人であるニーチェ君は、1900年に没しているが、わたしにバイブルを残してくれた。
本来は「師」と称したいところだが、あえて、友人にしておく。
なぜなら、わたしには、友人と呼べる人が、たいへん少ないからである激光去印

 

・・・今日は、ここで終わろうと思っていたのに、ついつい、おしゃべりしたくなる。
(友人、少ないもので)
とある、安酒場で、哲学者風の初老の男性が、いつも単行本を3冊ぐらいカウンターに積んで、読書している。
見るからに、清貧。または、赤貧。
髪は、ねとっと、いつシャンプーしたのだろうと思えるような、油っぽい、天然※ポマード(※昭和世代ワード?)付き、白髪のストレートヘア。
七福神の一人のような、でも、貧乏神って、こんなかんじかな?というような、そんな風情。
彼は、その安酒屋に一人で来て、黙黙と本を読む。
そこに来る前は、大手書店でお散歩。おそらく、日課なのだろう。
なぜ、知っているのかというと、たまたま、わたしの事務所がその界隈にあるので、幾度となく彼の姿を見かける。
安酒場は、ドアがないので、通行人からまる見えであるが、そんなこと、哲学者は、気にしない。

〔しかしながら、よくよく考えると、自室で読書という選択もあるのに、あえて人の目のある外で、というのは、彼なりの 楽しみ方?
似非(えせ)哲学者かも?  斜交いに構えたフツーのじいちゃん?
(ちなみに、この人に関して、わたしは何の嫌悪も好意も敵意も共感も感じていません)
わいわい、がやがやのカフェでしか勉強意欲が湧かない学生のようなもの?〕

わたしは、まだまだ孤高の哲学者にはなれない。
そこそこ、自分の気に入った洋服を着たいし、人の目も気になる。
しかし、「人の目」自体が気になるのではなく、人の目に映った自分を、鏡を見るかのように、自分が気になるだけであって、
「人の目」自体は、自分を確認するための単なるツールである。

鏡=人の目
自分流、解釈である。
そう言えば、ふと思い出す。
数代前のおばあさんが書き残した文言に、「立ち向かう、人のこころは鏡なり」というフレーズがある。
こんな言葉だったかどうか、ちょっとあやふやであるが、
仏壇の引き出しに入っているからいつでもチェックできるものの、いつ見ても、原文を覚えられない。

その、おばあさんが、その言葉を書いたのは、今のわたしより3歳若い年齢の時薑黃素膠囊
(有名人ではないが)ほとんど辞世の句のようなものだろうか。
幕末を生きた彼女(厳密にいうと、亡くなったのは明治初頭)の言葉を借りるまでもなく、平成を生きるわたしが、自分でたどり着いた心境である。
時代は移れど、変わらないものもある。

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等身大の自分

加藤諦三氏の深層心理に関する著書を読んだ魚油
「言いたいことが言えない人」

かなり自分に当てはまる。
その中でも特に、高い理想と現実とのギャップから低い自己評価に苦しむあたりは、どんぴしゃり。

劣等感は、見下す気持ちからも生まれるとか。
優越感の裏返しである。

へりくだっているつもりが、実は見下しているのか。

自分を正当に評価できない。
その理由のひとつとして育成歴が影響しているらしい。
高い目標や理想を掲げる人々に囲まれ、不当な批評家がいる家庭。
実際の自分より高すぎる基準の中で育つ。
家庭のみならず、学校も。

特に学校は、息が抜けない。
学校と家庭の狭間、隙間に、息抜きの居場所を求める二按
でないと、やっていけない。

そう言えば、わたしは、小学生四年生ぐらいの頃以来ずっと、一歩、家から出たら、のびのびしていた。
気持ちが明るく自由な気分になった。
結婚を機に、実家から脱出した時の、あの解放感。
でもそれは一時的なものであって、根本的な解決にはなっていなかった。

しかし、そこで思う。
記憶では小学生の高学年あたりから、楽しくない。
何故なんだろう?
自問自答してみると、おそらく自分にかかる負荷が強すぎたのだろう。
あまりにも優秀な未来のエリート軍団の中で、完全に押しつぶされたのではないかと分析する。

家庭では、フォローするどころか、教育は学校にお任せ、まる投げスタンス。
あのあたりから、歪みが生じたように思う。

小学校に入った頃の、理科の草花の学習や、言葉を教えてもらったあたりは、楽しかった記憶が残っている。
が、段々、学年が上がるにつれ、キツく苦しくなり、必死で無理やり頑張ってきた。
それが、小学生四年ぐらいからである。
まだ10歳。
家庭でも、父が重い病気を患い、暗く重苦しいハードな時期だった柏傲灣平面圖
そのあたりの体験や記憶が、わたしのベースになっているのだろう。
重くのしかかったまま、乗り越えていないと思われる。

で、もう還暦まで来てしまって、今更、どうやって乗り越える?
生まれつき、わたしは天然系なので、皆さん、どんなエライ人も、加齢による認知症もぼちぼち出始めて、こちらの陣地に近寄りかけている。
こりゃあ、笑うしかないかなあと。

逆ギレではなく、優しく穏やかに、開き直って加齢を味方に、ゆっくり歩いていこう。

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煩悩が邪魔して、美しくなれない

はじめて訪れた、とあるブログ。
涙が頬を伝った。
わたしは、こういう路線に弱い。涙腺、大全開。

幼い頃の家族の光景が書かれていた。
今は亡き、ご両親と、妹さん。
お父さんの服装、いでたちがノスタルジックな風情を醸し出していたdermes 價錢

ちなみに、今、3歳になる、口のよく回る、記憶力抜群の我が孫。
(記憶細胞が毎日どんどん死んでいく、にぶいアタマのわたしから見ると)
彼が1歳前後の頃、まじっと彼の顔を真近で見て、なんと純粋な顔だろう???と涙が出た。
まざりっけのない、自然の彼は、知恵もなにもついていない。
かわいい、を通り越して、美しいと思った。

人は成長していくにつれ、自分を守る技を身につける。
身につけなければ、生きていけない。
その手助けをしてやるのが、親の役目でもある。
そんな教科書に書いてあるようなことは、十分わかっているが、
純粋なものは心惹かれ、吸い込まれそうになる。
それだけ自分のこころが濁っているのかも知れない。

純粋な彼の目に映るわたしは、どんなものなのだろう。

彼の目には、わたしが映っていた。
鏡を見るように、そこには、わたしの顔があった休閒椅
わたし自身が投影された姿だ。
だが、彼の目は鏡ではない。
彼自身が持つ目だ。

1歳では、彼の記憶にはまったく残っていない。
だから美しいのか。
理屈付けできない、わたしがいる。

さて、前述の、そのブロガーさんが幼い頃のシーン。
ご自分で覚えておられるので、1歳やそこらではないはずだ。
わたしも、祖父のお葬式の1コマをはっきりと鮮明に覚えている。
命日から計算すると、当時のわたしは3歳6ヶ月である。
現在、上の孫は3歳1ヶ月だが、似たような年齢だ。

祖父が亡くなる以前の様子もしっかり覚えている。
亡くなる直前などではなく、もっとゆるやかな時間が流れている頃だったと思う。
話したり、受け答えや、やりとりした記憶がある。
よく、祖父の臥している部屋に行って、お菓子をもらっていた。
祖父は、わたしが行くと、新しくお菓子の袋の封を切ってくれた。

ということは、現在の上孫の年齢の頃には、
わたしという人物は、もうすでに彼の記憶の箱に仕舞われているということだ。

幼い頃の田舎での風景、光景、今も目に浮かぶ。
蝶ブログにも何度も書いている。懐古趣味か香港矯視中心
何度か、大改造はされているが、ベースは同じ。
現在もなお、全く同じところに、同じものが、同じようにあるので、とても不思議なような、
過去?現在?未来をタイムライン号の船に乗って見るかのごとく。

玄関脇にある庭石。
この陰に隠れて、かくれんぼをよくした。
あんな小さな隙間によく身を隠せるなあと、いつも不思議な気持ちで見ている。
当時のわたしは、猫だったのか?

祖母が日常に使っていたお針箱。
その近くに、わたしの幼稚園時代の道具箱が置かれている。
旧姓フルネームで、わたしの名前が書かれているが、去年、発見して、よくまあ、あんなもの、まだ置いているなあと、びっくりした。
目をぱちくりと瞬きする瞬間に、ひとっとび半世紀前の時代にタイムスリップ。
ふたつ瞬きすると、百年前。
セピア色の残像が、NHK番組のファミリーヒストリーのようだ。

今も、私が子供の頃と同じ場所に、ツバメが巣を作っている。

???と、延々、残像シリーズは、きりがない。

話を戻そう。
そのお邪魔したブログには、クラシックの名曲が流れている。
いいなあ???。こころが洗われるようだ。
現在、抱えているわたしの悩みの解決の糸口にならないかと、記事タイトルをあちこちクリックして、
過去の偉人たちの名言を読んでみる。
現世の生煮えなわたしには、まだ、ちょっとすんなり取り入れるには、ハードルが高い。
煩悩がイキイキ。もやもやを通り越して、現役で暴れている。

あと十年は経たないと、しっかり枯れて、いい味が出ないような気がする。
じっくり寝かせて「熟成」などというと聞こえはいいが、
悟りなど、一生、開けないだろう。生きている限り。

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