終日おのぼりさん楽しむ

金曜日晴れ
B4決めの試合を見たくなり電話を入れると11時30分NBというから、あきらめて蘇我駅へ向かった。特急料金510円を払うとあっという間に東京駅に、途中浦安のデズニーランドがチラッと目に入った。
早速、はとバス案内へ出かける。よく考えもせず半日コースを申し込み出発の12時までには時間があったので、赤レンガの東京駅舎の正面から踏切を渡って振り返ると旧東京駅の全体を見渡すことができた。

5月のそよ風を受けた薄緑の街路中が適宜に植え込まれた歩道、ピカピカのビルの谷間に歩を進めると帆船のレリーフが目についた。こった値打ちものに見えたので近づいてみた。

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        オランダ船「デ・リーフデ号」
本彫刻は昭和44年4月22日、オランダ王国ファン・アフト
首相来日の際、同首相よりオランダ王国政府に代わり、日
本国政府に対して寄贈されたものである。
本彫刻のモデルとなった蘭船デ・リーフデ号は、1600年4
月14日豊後臼杵湾北岸佐志生(現在の大分県臼杵市)に漂着
したが、同船の乗組員であったオランダ人ヤン・ヨース
テン・ファン・ローデンステインは、時の将軍徳川家康に
顧問として仕え、わが国ではその名も八重洲として知られ
将軍よりこの地域に住居が与えられていた。
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そのまままっすぐ周囲の構築物と雰囲気に圧知られ進むと足元に小鳥の死骸、そして向こうに石垣が現れた、皇居に違いないと歩を早める、時間に限りがある。大きな道路へ出ると反対側に向こう側に石垣、皇居に間違いないが二重橋は右か左か、左へ進むと目の前でバスが止まった巡回バスで無料とあったので飛び乗る。次が二重橋付近だと分かり下車して、右へ大きな信号を渡ると広大な皇居に向かっての展望が開けたが、行けども行けども二重橋は視野にはいらない。不安になり後ずさりしてみたが、進むしかなかった。左側奥にバスが並んでいたし、観光客も左サイド奥へと進んでいる。次の大きな信号まで来ると左手奥に二重橋が小さく見えはじめ、時計を気にしながら急ぎ足で近くまでたどり着いた。行き来する観光客、日本語はほとんどなかった、中国、韓国語に思えた。それは浅草雷門界隈の人ごみの中でも同じだった。

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急いではとバス案内所まで戻ったが、時間はまだたっぷり、二重橋でゆっくりしとけばと思ったが後の祭り。
半日コースのカタログを見直すと、皇居見物も含まれていたし、スカイツリーと思ったのは東京タワーだったのでぼくの頭は混乱し始めた。こんな場合どうすればいいのか、出発までの残された時間は20分、ダメもとで事情を話してキャンセルを恐る恐る申し入れた。彼女はクレームは付けずに、分かりました200円かかります。
スカイツリーでしたら二階建オープンバスでの1時間コースがあります、というのでそれに切り替えてもらった。
出発は1時間遅れの13時00分。

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まだ14時、孫のところへ行くには時間がありあまる。雷門、バスで前を通ったことはあるだけだ。浅草へ行ってみようと東京駅舎の中へ、案内書は持っていなかったから、まさにいきあたりばったり、案内板を穴の開くほど見つめたが「浅草」という駅名は見当たらなかった。「秋葉原」知っている駅名に誘われて目指した。「秋葉原」で下りて案内板を凝視、「浅草橋」が目についた。ここかもしれないとたどり着き、ホームからおり立ったが、それらしい雰囲気はない。どうしたものかと立ち往生していると、都営地下鉄の案内が目につき、そこに「浅草」という駅名を発見した。そしてようようたどりつき、雷門方面という出口から裏町に出てようやく雷門を見つけることができた。金曜日というに雷門から続く延々の参道、両脇の出店、すれ違うのが大変だった。ここは中国か韓国か、ぽんとおかれれば間違えそうな気がした。

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ぼくは疲れ果てていた。万歩計は2万5千近くなっている、まだ空は明るかったけれどもう動く気はなかった。残された力で孫のところを目指すのが精いっぱいだった。


カテゴリー: 日記 | 投稿者ていちゃん 20:36 | コメントをどうぞ

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