金曜日
暑い日々は続き甲子園では青春の戦いが行われている。あの真摯さには胸打たれる。
夏の夜空の大三角形、小学4年の孫娘の宿題に星の観察があり、それを家が屋でやることで早めに来ることが出来たらしい。屋上に上がると見えるだろうと思っていたが甘かった。街中よりかい離していると考えていたが、いろんな光が星の観察の邪魔をしていた。
子どもの頃、もらい風呂をして帰るとき夜空を見上げると満点の星が見えていた。ひしゃく星や天の川は手に取るように見えたが、屋上からはそれが見えなかった。たいがい目をこらして観ていたがだめ、天の川をまたいているらしい夏の大三角形の星は何となくあれかなという感じだった。一時間後の星の位置を観察するのだ。孫にはぼくらには見えない星が見えると言う。視力の差を実感していた。
疎遠になっているテニス仲間の訃報があった。還暦祝いを一緒にやった仲間では初めてのこと。一番最初にぼくがやってもらい最後に祝ったのはぼくと十歳違いの仲間だった。そう言えば十年間に7、8人の還暦祝いをやったことになる。
ぼくから二十年近い歳月が流れて大台は目前にある。謙虚に生きて行こう。よくなければ一切足り、求るありて万事窮す。
津川雅彦の訃報もあった。妻の朝丘雪路がなくなったとき、鼻にチュウブを入れてえらくやつれて記者会見していたのがつい先ごろのこと、あとを追ったということになる。
ぼくは津川のファンでもないが、彼がデビューするときの印象が鮮やかにあるのだ。北九州の戸畑にしばらくいたとき、街の中心部の真新しい図書館があり通っていた。置いてあった朝日か毎日かのグラビアを手にすると一面を使った津川の写真が載っていた。真新しいスーツを身につけた好青年が胸を張って遠くに目線があった。まぶしかった、ぼくはどうしょうもなく惨めだったに違いない。それが津川雅彦だった。直後に日活で活躍、石原裕次郎には先を越されたが兄の長門祐二と共に活躍をした。好き勝手なことをしてつらぬいた生涯だったに違いない。
それ以来訪れていない戸畑の街は大変貌しているだろうきっと。まだ空き地が目につき、図書館のすぐ側には古ぼけたテニスコートが1面、中年のおっさんが硬式テニスを遊んでいて、うらやましく通り過ごしていた遠い昔の思い出。戸畑の提灯山笠の祭は今も続いている。あれからいく歳月が流れたのだろう。
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実際星の観察をするためには外輪山くらい行けばよく見えると思うけど、じいちゃんの夜のうんてんは危ないと禁止を命じられました。
星の観察つきあってくれて、ありがとう。
子供達は、じいちゃん、ばあちゃんと一緒に過ごせて凄く嬉しそうです。
本当にありがとう。