木曜日
近くに住むテニス仲間の訃報の知らせにがっくり。八十路にはまだ少しあったはずなのに、先に行ってしまった。胸の病で入退院していたが、テニス仲間のラインに「・・・総合的検査の結果、再度熊大病院で治療することになりました、あとひと踏ん張り頑張りす。・・・・」と写真入とりのコメントがあった。あの写真が気になっていた。明日が通夜、明後日が葬式。合掌。
火曜日兄のところに行ってきた。葬式の会場で、連れ添いの看病疲れと急逝にショックを受けていた、痛々しいほどの兄の姿が気になっていた。
昼からお願いして親父のルーツの部落を訪ねて行く。40年ぶりくらいかな、終戦直後に行ったときは神社の中に戦闘機らしきものがあったので、びっくり、どうして運んできたのだろうと?
当時は歩いて行ったのだが、それからでも車でかなりの距離があった。山間の途中まで広く舗装されていたが、それが途切れると上り坂の鬱蒼とした山道、何とかボロの舗装は
されていたが、軽でいっぱいいっぱいの道、離合なんでできるところは、ほとんど見当たらない。心配しながら慎重にデイズを進めると、最後まで車は来なかったのでほっとしていた。青空が見えるところに出ると、人の気配はなく、廃墟のボロボロの家屋が転々と目に入っていた。
まさに廃墟の部落が寂しく朽ちかけていたが、上の方に一軒だけ生き残った家があった。
親父弟兄は昭和の初めころだろうか、心を決めて出稼ぎを考えたのだろうが、ハワイやブラジル等には旅費をねん出できなくて近くのフィリピンに行ったのでは、と想像している。
想像するだけで何も証拠がないので分からない。明日、想像してみよう。親父の生きざまを・・・・。