水曜日
テレビで色んなことが放映されている。
この写真には「昭和十六年春のある日」と墨で書かれている。日本がアメリカに対して宣戦布告して真珠湾を攻撃した年の春の出来事。
父はどんな気持ちで家族写真を撮ったのだろうかと、この齢になって、つくづくと考えている自分がいる。肺を病んでフィリピンより引き上げてきて、こんな田舎街でひっそりと写真屋をやっていたのは自分の病状をを考えてのことだろう。借家の普通の家で裏にはすりガラス張り写場があったのは記憶がある。
何を思ったのか父は香春神社の中で家族写真をとっていた。箱型の大きな昔の写真機、木製の長い三脚を取り付け、黒い布を写真機に被せて撮るのだ。覗くとさかさまに写っているはず、父も一緒に写っていればその当時の面影を知ることができるのだが、父の写真は沢山あるが、じかに見たり抱いてもらっありの記憶はない。一部屋に閉じこもって寝ていたようだ、接触の機会がなかったのか記憶がないのだ。
当時2歳だったぼくにはその記憶もない。まともな治療もできずに父は終戦の前年、19年に亡くなった。どんな気持ちだっただろうか、幼子を3人残してどうすれば良いのか、父が死んでから母は田舎に引っ越して、父から学んでいたのか大きな写真機で写真屋を細々と初めていた。技術もまだ未熟で人伝での仕事を時々やっていたようだ。母に色々聞いておけばよかったと後悔している。父は戦争中に香春町に寄付金を何回も収めている。感謝状が兄のところに残っていた。まともに写真の仕事は出来なかったと推測するが、すこしは貯えがあったのだろう。
あれから80年の歳月が流れている。界隈のたたずまいはほとんど変わらない、ぼくたちのことを知っている人たちは、もうほとんどいないだろう。
今度行ったら石段をチェックして、どこでどんな風にして写したのか、探索してみたいと思っている。