金曜日
霊台橋という名前は何度も見聞きしたことはあるが、行ったことはない。通潤橋の方が大きくて放水などで有名で二度くらいは行ったきがする。
二三日前の新聞に「唯一無二 めがねの橋伝道師」上塚尚孝を偲ぶ、という記事を読んで興味をそそられていた。教師になられて赴任先の砥用町への道中で出会った霊台橋、その美しさにほれ込み、教師のかたわら石橋の探索研究を生涯続けたという。「めがね橋は石だけん丈夫で固か。ところが美しかアーチを見ていると、優しかきもちになる。・・・・・」
ぼくはどうしても見たくなり二人で出かけた。高速を利用できるようになったり、道も整備されているのを慎重に運転しながら、御船町や甲佐町は昔の面影をさがすも立派な街に変革しているのに、戸惑っていた。山際に近ずくと変化は少なく少しだけほっとしていた。
道路際には大小の柿の木に柿がたわわに、秋を感じることができたが、紅葉にはまだ少し早そうだった。
1847年(江戸時代末期)といえば今から172年前、鬱蒼とした山道があるばかりだったに違いない。河の向こうに人が渡る為につり橋くらいあったかもしれないが、物資を運びたかったのだ。家に戻って考える。現在の何に匹敵する工事なんだろう。住民の総力を結集して完成したものです。と説明書きにはあったけれど、それにかかった労賃、材料費、設計監督した人たちのことを考えてみた。「・・・人を渡し、物資を渡し、文化を渡してきました。・・・・」文化を渡してきました、が一番印象に残る言葉。
通潤橋は霊台橋から登ることしばらくしての山都町の中心部に近いところ、すっかり観光地化している。