小室圭夫婦誕生めでたしめでたし 3回目の小郡へ

火曜日 晴れ

少し遅れたけど3回目の腱板断裂の診察とリハビリへ、昼から小郡まで二人で出かけた。
デイズのプロパイロットを作動させて80から90キロでトラックの後を追従すると、騒音も少なく燃費も良かろうと、高速道路の運転は行っている。

15時予約、30分ほど待たされて、今日は一人で診察室へ。いつものパターンで腕を上にげさせ、横に開いて角度をチェックして、終わりかと思ったら、後ろから背中の肩甲骨を両手で触っていると、手術した左の肩甲骨が少し内側に傾いているという。

リハビリ担当者に伝えるので、矯正のやり方を習うようにと言われて診察は終わった。
今日の理学療法士は田上氏だった。
① 手を椅子などに付いて、左腕を下から上へと角度を付けてあげる。
② 腰かけて手のひらを膝の上に乗せ固定して胸を前に出す。
③ 仰向けに寝て適当なボールを腕伸ばして挟み、上に上げて行く。各10回程度。

リハビリは5か月だけど、ぼくの程度を観察して、もうリハビリはよいだろうと言われた。

カテゴリー: 日記 | 投稿者ていちゃん 22:40 | コメントをどうぞ

10月24日八十二歳の誕生日 おめでとう!

日曜日 晴れ

急速な新型コロナの収束に、不気味な気持ちだ。当県は今日はゼロ。

ぼくは明日、二回目の予防接種、近くの上原医院で昼から行う。少し心配がある。

誕生日のお祝いは『東バイパスの「濱かつ」でいいよ!』とお願いした。季節限定の牡蠣フライの定食、特に揚げたてのカキフライがおいしくて、腹ふくるるおもいで、満足していた。昼前に行ったのっだが、満員に近い状況だった。

誕生日を契機にテニス復活するため体力づくりを始めようと、夕方、麻生田の下り坂を下まで歩くこと30分、真っ直ぐ行けば戻らなければならないから1時間近く歩くことになる。

戻りの前半は登り、スロースロージョギングでようやく上っているとおばさんが歩いている、追い抜こうと追いすがるが距離がちじまらない。おかしいなーと相手の足元を見るとピッチの速さが普通ではなかった。坂道を登りきるころまでは、くたびれて追いつくだろうと思ったが、ピッチは衰えず銀行の所まで何とかついて行くと、そこで左に曲がった。

目標がなくしたぼくはヨタヨタしながらなんとか帰り着いた。9000余歩。

カテゴリー: 日記 | 投稿者ていちゃん 22:11 | コメントをどうぞ

美里町へ めがね橋(石橋)をたずねる

金曜日 曇り 晴れ

霊台橋という名前は何度も見聞きしたことはあるが、行ったことはない。通潤橋の方が大きくて放水などで有名で二度くらいは行ったきがする。

二三日前の新聞に「唯一無二 めがねの橋伝道師」上塚尚孝を偲ぶ、という記事を読んで興味をそそられていた。教師になられて赴任先の砥用町への道中で出会った霊台橋、その美しさにほれ込み、教師のかたわら石橋の探索研究を生涯続けたという。「めがね橋は石だけん丈夫で固か。ところが美しかアーチを見ていると、優しかきもちになる。・・・・・」

ぼくはどうしても見たくなり二人で出かけた。高速を利用できるようになったり、道も整備されているのを慎重に運転しながら、御船町や甲佐町は昔の面影をさがすも立派な街に変革しているのに、戸惑っていた。山際に近ずくと変化は少なく少しだけほっとしていた。

道路際には大小の柿の木に柿がたわわに、秋を感じることができたが、紅葉にはまだ少し早そうだった。

1847年(江戸時代末期)といえば今から172年前、鬱蒼とした山道があるばかりだったに違いない。河の向こうに人が渡る為につり橋くらいあったかもしれないが、物資を運びたかったのだ。家に戻って考える。現在の何に匹敵する工事なんだろう。住民の総力を結集して完成したものです。と説明書きにはあったけれど、それにかかった労賃、材料費、設計監督した人たちのことを考えてみた。「・・・人を渡し、物資を渡し、文化を渡してきました。・・・・」文化を渡してきました、が一番印象に残る言葉。

通潤橋は霊台橋から登ることしばらくしての山都町の中心部に近いところ、すっかり観光地化している。

カテゴリー: 日記 | 投稿者ていちゃん 22:42 | コメントをどうぞ

久しぶりの運動公園 偶然に熊壮会が行われていた

月曜日 晴れ 朝夕秋らしく冷え

体力気力その内回復するだろうと楽観視していたが、さもあらず。

毎日運動公園でウオーキンや壁打ちをしているという温泉仲間から、気分転換に運動公園は良いですよと誘われていた。

チャリで運動公園へ、9時半過ぎ家を出る。退院してから初めての長距離でのチャリ。ハ ンドルさばき問題はなかったが、坂道には体力なさを実感していた。コートで走り回るのは問題があると感じていた。11月から左肩を極力使わないテニスを再開してみようかと考えているのだが足がダメなら無理かもしれない。

一番広い広場の草原に立ったが紅葉には早すぎた。Aコートを垣間見るとテニス仲間が週三回の練習をしている。

日当3万円だとメディアが取り上げていた、車チェックの監視員が公園内に配置されていた。チャリを車の横に止めたら近寄ってきて、あそこに止めてくれと指さした。問題ないところだと思ったが、文句言っても疲れる。

よたよたとジョギングしている似たような人がくる、彼だった。「壁打ちは」というとまだ少し走る?というので、ぼくはチャリでメインコートCDの方に行く。その一角にセンターコートと壁打ちコートがあるのだ。

チャリを監視員に判らないように草むらに寝かせて、階段を上がるとCコート眼に入る。にぎやかだ、何かの大会をやっている。女子の選手だ、女子連か何かの大会かと近ずくと、

ぼくを遠目に見つけたのか一人の女性が小走りでくる。頑張り屋(kubota)さんだった。聞くと熊壮会だと言うのでびっくりしてた。みんなに会って挨拶セロということだったかもしれない。4ケ月で腕は完治に近いのだ。Dコートへ行くと男子の試合が行われていて、親しくしていた人達と合って会話をしていた。

ぼくは調子に乗って連絡員に11月の会には参加しますと言ってしまった。

IMG_1100

IMG_1098

カテゴリー: 日記 | 投稿者ていちゃん 21:13 | コメントをどうぞ

腱板断裂手術4か月目 順調すぎる回復だと思う?

金曜日 晴れ

今日は10月15日、腱板断裂手術して4か月目です。6月15日手術してから7月21日退院した。
脇を固定する装具はつけっぱなしで高速バスで帰り就くとその足で、近くのリハビリの医院に行きリハビリをお願いする。

まだ腕は肩まで上がらず左手はほぼ使えない状態だった。片手だけしか、風呂に入るときなど不自由さを実感していた。ズッコケでもすると、肩を痛めて悪くすると再手術とかが頭をかすめて必要以上に慎重になっていた。今はほぼ普通通りに風呂も入れるし、当初はラジオ体操もままならなかったがいまでは、左右の腕を同じように体操できるようにっている。

まだ少し違和感残るところもあるが、半年後、あと二か月すればそれも解消されることを期待している。

カテゴリー: 日記 | 投稿者ていちゃん 20:47 | コメントをどうぞ

母と父の結びつき➁

火曜日 晴れ 今日も暑そうだ

昨夜またデイズのバッテリー上がっているのに気が付く。何がいけなかったのか分からないが、施錠していなかったのが、一番の問題だが。

タイトルの②は下記の日付でおうよそ書いていたので、コピーする。

2021年03月27日  土曜日 晴れ 「ファミリーのルーツを尋ねて」

カテゴリー: 日記 | 投稿者ていちゃん 09:20 | コメントをどうぞ

手術の質問にてまどる 長女夫婦急ぎの旅

月曜日 カレンダーではスポーツの日の祭日と思えしが東京オリンピックと振り替わりとかで休みでないと長女が言う。昨日福岡で友達と会って昼過ぎやってきた。二人でできたての熊本城に行ってきて、暗くなって帰って来てそれからの旦那と行きつけの温泉へとバタバタする。
入城料は800円で高すぎると言って眉をひそめていたが、ぼくもそう思った。みんなの寄付でこぎつけたのであろうから、500円から400円だったら、またという気持ちにも、なろうけれども、もう二度と行くかだとぼくは想像する。

今朝は9時半からの映画を見ると言う。4人で新型デイズに乗り込んで光の森へ出かけた。映画には行った記憶が見当たらない。お付き合いで行ったのだが、前の席を取っていたので、迫力ある音響に両手で聞こえずらくなった耳を両手で抑えながら調節しながら、カーチェイスのド迫力、次々と変化する画面の音響のド迫力に3時間余耐えるのはしんどかった。
最新作・映画『007 ノー・タイム・トゥ・ダイ』最後には15年間主演の007は死ぬ。昼は熊本ラーメンを食べて高速バスで福岡空港へ帰途に。

久しぶりのコメントの返事に手間取る。(腱板断裂手術の質問)
テニスの温泉仲間から、手術をした人がいると聞いていたが、誰かははっきりとしていない。

カテゴリー: 日記 | 投稿者ていちゃん 23:16 | コメントをどうぞ

母と父の結びつき①

金曜日 晴れ

父はきつい労働について行けず、抜け出して写真屋さんの手伝の仕事にありついたのだろうか、おそらく十代で行ったことだろうから、かれこれフィリピンでの生活は20年近く続いていたようだ。

技術も取得して余裕もでき、だからそれなりにフィリピンでの生活を楽しみ写真館として独立して、お店や車も持てるようになっていたようだ。稼いだお金を田舎に仕送り山林などを買っていたようだと母から聞いたことがある。

写真屋さんなので写真は沢山、色々と生活ぶりが想像できる。父は結婚を考えていた女性に振られ40近くなっていたので慌てたのだ。日本で花嫁探しを始めたのだ。

記憶に残っているいることを、つなぎ合わせればさもありなんと、思うのだ。長女の母は、女学校を卒業して中津にある専門学校で小学校教師の免許をとり、田川で先生をしていたようだ。長女で年ごろになっていた母にそんな縁談が舞い込んだのだ。

年齢差二十歳、嫁ぎ先はフィリピン、普通だったらキャンセルする縁談だが、好きな人との結婚を反対されていた母は違う思いがあった。

カテゴリー: 日記 | 投稿者ていちゃん 23:37 | コメントをどうぞ

テニス仲間の訃報  兄宅訪れ親父のルーツを

木曜日 晴れ

近くに住むテニス仲間の訃報の知らせにがっくり。八十路にはまだ少しあったはずなのに、先に行ってしまった。胸の病で入退院していたが、テニス仲間のラインに「・・・総合的検査の結果、再度熊大病院で治療することになりました、あとひと踏ん張り頑張りす。・・・・」と写真入とりのコメントがあった。あの写真が気になっていた。明日が通夜、明後日が葬式。合掌。

火曜日兄のところに行ってきた。葬式の会場で、連れ添いの看病疲れと急逝にショックを受けていた、痛々しいほどの兄の姿が気になっていた。

昼からお願いして親父のルーツの部落を訪ねて行く。40年ぶりくらいかな、終戦直後に行ったときは神社の中に戦闘機らしきものがあったので、びっくり、どうして運んできたのだろうと?
当時は歩いて行ったのだが、それからでも車でかなりの距離があった。山間の途中まで広く舗装されていたが、それが途切れると上り坂の鬱蒼とした山道、何とかボロの舗装は
されていたが、軽でいっぱいいっぱいの道、離合なんでできるところは、ほとんど見当たらない。心配しながら慎重にデイズを進めると、最後まで車は来なかったのでほっとしていた。青空が見えるところに出ると、人の気配はなく、廃墟のボロボロの家屋が転々と目に入っていた。
まさに廃墟の部落が寂しく朽ちかけていたが、上の方に一軒だけ生き残った家があった。

親父弟兄は昭和の初めころだろうか、心を決めて出稼ぎを考えたのだろうが、ハワイやブラジル等には旅費をねん出できなくて近くのフィリピンに行ったのでは、と想像している。
想像するだけで何も証拠がないので分からない。明日、想像してみよう。親父の生きざまを・・・・。

カテゴリー: 日記 | 投稿者ていちゃん 22:40 | コメントをどうぞ

ブログ 総合ランキング1位にびっくり

日曜日 晴れ 残暑厳しく

ブログ 総合ランキング1位にびっくり、一日だけど。

カテゴリー: 日記 | 投稿者ていちゃん 00:06 | コメントをどうぞ