土曜日
昨日は晴天、さくらは満開、しかしテニスクラブはイヴェントで有料だと聞いていた。その内と思っていた尺八の修理もできていたし、昔々の両親や家族の写真を2L版にして額に収めていたので、兄の処に届けようとルーツの詰まっている田川経由で目指した。
鳥栖インターで下りて途中から大きく左に曲がり飯塚を経由。いつかわと何度も思いながら、やっとその日飯塚の街の手前から右折して田川の中心部へとデイズを走らせていた。
祖父の住んでいた大藪の社宅、何十個あったのだろうか、一戸一戸板塀に囲われていた住宅があまたあった気がしている。
列車が土手の上を走っていて土手の下のトンネルの道を抜けると左手少し下の方に社宅が立ち並んでいた。社宅の先にはちょつとした広場があり、その先の高台に職員の憩いの建物、クラブとか言っていたような気がする。その道をまっすぐ進むと自分たちが住んでいた香春へ、行けると思っていた。
そこは大藪の社宅と呼ばれていたと、ぼくは車を運転しながら、思いだしていて、びっくりしていた。しかし戦前の話で、戦後もしばらくは使っていたかもしれないが、黒いダイヤと呼ばれていた石炭は、ラジオがテレビに代わっていたように、石炭は石油に変わって行って栄えていた田川は取り残されていったのだと思う。その頃炭塵爆発で三池炭鉱だったか、斜陽産業が大打撃を受けていたのを思いだす。
カーナビなどを使ってウロチョロしてみたが、アップダウンのある入りこんだ道が迷路のようにあり、兄のところにもいかなければと諦めて、兄宅にナビで設定して車を走らせていると、道沿いの家で、頃合いの良い老婦人が玄関先で何かしているのが目につい。二人目の人だった、ダメもとで尋ねてみようと、車を止めた。ぼくはどんな風に話しかけたか記憶にない。なんだか心意気があったのか、どうどこちらへと玄関際に座らせてくれた。
87歳という女性は色々思いだしてくれて、詳しかった。大藪の社宅というのも知っていて驚いた。社宅の跡地はマンションなどが立っているようですという。母のことも、自分は香春町で生まれて云々と会話した。そこで写真館をしていて、これが写真ですと香春岳の写真2枚を見せると、驚いて自分もこんな風に見えるところに住んでいましたと話す。
分厚い名簿を持ってきて、昔は女学校に行くのは大変で、行けるのは優秀な人たちだけでしたなどという。母がどこの学校に行ったかなど詳しくない、田舎の親せきの家に下宿して先生になるため中津の学校に通って、田川で小学校の先生をしていたとは聞いていた。
(昭和初期の香春岳)
創立100周年記念と書かれた名簿、平成29年版、福岡県立西田川高等学校、高羽同窓会会員名簿と書かれており、その中に母の名前があるなんて、思いもしなかった。渡された名簿を、なんとなくページをめくっていると、昭和3年、卒業生の名簿の物故者のところに母の名前を見つけたときは、まさかと感極まっていた。何というめぐりあわせか、物静かなこの人は母の後輩だったのだ。色々話した気はするがうろ覚えだ。家の前には道を挟んで木立があった。この向こうに石炭公園がありますよと教えてくれた。ぼくは兄宅へと急がねばと、次の機会にと考え車を走らせていると、二つの煙突が目に留まった。
帰って調べると古ぼけた写真集が見付かった。母は当時、福岡県田川高等女学校を卒業していた。京阪・山陰地方 修学旅行記念 昭和2年10月 福岡県田川高等女学校 四年生と粗末な黒っぽい表紙に印刷されていた。
母の父は現在豊前市と呼ばれている片田舎から満足に小学校にも行かずに田川の炭鉱で働いていたに違いない。田舎の人たちを呼んで自宅に住まわせ炭鉱夫の下請けみたいなことをやっていたようだ。6人兄弟の長女だった母は小さい頃から、まかないの手伝いなどさせられて、大変だったと語っていたのを思いだす。無学だった母の両親は子供たちには学問をさせようと誓って頑張っていたという。男の子供二人には大学まで行かせて、女姉妹四人は当時の女学校を卒業させて、小学校教員免許をとれるところまで学ばせていた。
母は中津の何とかいう専門学校を卒業して田川で小学校の先生をしていた。その当時好きな人が小倉にいたが軍人だったので、結婚を反対されて失意のどんどこだったに相違ない。
フィリッピンで写真で成功した男が嫁探しに帰国していていた。その男は母と20歳も違う男、出稼ぎで出かけ、写真屋に潜り込み成功したのだ。若い可愛い女性に目をつけて、成長するのを待っていたようだが、彼女が年ごろになると、父は振られていたのだ。
お互いに通じ合うものがあったのだろうか、母は意を決して父のもとフィリッピンへと別府港から船出した。「今宵で船かお名残り惜しや 暗い波間に・・・」
歌詞:『出船』
今宵(こよい)出船か お名残惜しや
暗い波間に 雪が散る
船は見えねど 別れの小唄に
沖じゃ千鳥も 泣くぞいな
今鳴る汽笛は 出船の合図
無事で着いたら 便りをくりゃれ
暗いさみしい 灯影(ほかげ)の下(もと)で
涙ながらに 読もうもの
別府港の桟橋には妹のきみ子叔母さんが見送りに来ていて、この歌を手渡したのだ。小さい頃何度も聞かされ覚えている。
(フィリッピンでの両親 犬の名前 ノウブル 何枚かの写真いつも母の前に座っている)
父の写真の師匠は肺病を病んでいた。暗い密閉された暗室での写真の仕事で、父も肺病になっていた。病んで帰国した父は母や祖父の生活の地を選んで香春岳のふもとに小さな写真館を開業した。道を挟んで直ぐに小学校があり、その隅っこに幼稚園があった。
父の師匠の末路は知る由もありませんが、父はわかっていたはずです。
あの戦争の勃発した年、昭和十六年四月、香春神社まで行き家族写真を撮ったのには何かを感じます。祈祷師がいました。まだ余裕のあったらしい父は香春町に色々と寄付をしていました。兄宅でその感謝状を見ました。神頼みで延命を願っていたのでしょうか、とにかく自分が元気なうちにと、神社まで行って大きな箱型の写真機のシャッターをどんな思いで押したことでしょうか。ガラス張りの写場をもっていたのですから。父は母子4人を残して終戦の前の年19年に亡くなりました。
軍人だからと結婚を反対された母、その人は元気に復員していたかもしれません。
その後の母の苦労を思うと胸が痛みます、その恩をどれくらい感じて生きてきたかと思うと又胸がいたみます、八十路になってようやく・・・・・。