霊に満た邪悪

 それに対してルター派の学生メイランダーは「スーパースター」が賞賛されたのはその「非宗教主義」を超えたからーつまりイエスをセレブとして捉えたからではなくその超越性を無にしたからーと。しかし、この問題は「カリスマ性や癒しの力が讃えられた人間イエス」だからでもそれ以上の神性を表せなかったからでnuskin 香港もないように思える。「イエスはクール」でも「疲れ果て、ぼろぼろで」あってもヴェトナム戦争でジレンマに追い込まれたアメリカと云う国、冷戦構造に終末戦争の危機を伴う1970年代と云う時代、「若いヒーローを破滅させるな制度を特徴とするストーリーならどんなものでも、若者が賞賛する」と云う指摘は正しいと思う。
 ただ、セレブは現代のセレブとは異なり、著者も指摘する「マリリンモンロー」「エルヴィス」等のセレブが故の代価を思い起こすと云う。「スーパースターのイエスの苦しみはユダの贖罪と変わらない」とモンロー、エルヴィスのセレブが故の苦悩と神性に至るイエスの贖罪の苦悩(ゲッセマネの園を思わせるシーン「あの時私はされていました。でも今は悲しく疲れています」)とは似て非なる苦悩を現代人は自分たちの苦しみに符牒して共感しているのだ。それが著者が言う「スーパースター」によって大衆が抱くイエスへの憧憬を復活させたのだろうか?

1973年、グレンキャンベルが「スターになる前のイエスを知っている」という歌をヒットさせた。キャンベルが歌ったイエスは南部のイエスと深くかかわり、正当性が備わっていたと著者はいう。キリスト教徒が幼い時から聞かされ読んできたイエスの物語、は視覚化されたものではなく、言語化されたものが優先されるキnuskin 香港リスト教国アメリカのプロテスタントの信仰の道である。しかし確実に変化が齎されつつあった。セレブへの批判は穏やかになり、一般的に名声を受け入れ正当化されつつあったし、更に視覚化されたキリストを受け入れるようになっていた。カトリック教徒はイコンに加えマリアや成人の肖像を数はしてきた。それに対してプロテスタントはイエスの視覚化が神の完全な支配を危うくし、自分の目的に合わせた神を探る誘惑に勝てなくなると偶像化を拒んできたが、アメリカの福音主義のプロテスタント、特に女性を中心にイエスの肖像を自宅に飾るようになり、教会にも飾るようになる。

1972年の「スーパースター」の公演は、アメリカが経験したキリスト教の時代の終焉を告げる印とも云えた。従来のイエスの言葉の方が肖像より上と云う考え方は感覚的にも受け入れられなくなっていた。また福音的な解釈も、「スーパースター」の中ではイエスは「愛」や「正義」と云う言葉は出てこないが、マグダラのマ寶寶食物過敏リアが愛について語るがそれは「アガペ」ではなく「エロス」である。


カテゴリー: 未分類 | 投稿者passioncool 13:28 | コメントをどうぞ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です


*

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong> <img localsrc="" alt="">