他人の目

わたしのブログ。
他人さまが、穿(ほじく)り出してくださった過去の記事を読んだ。
これ、マイブームだといっても、いつも手に汗にぎる。ヒヤヒヤ。

中身。キツイ~。
問答無用で、ビシーっと斬っている。
愛がない。
そう感じた。
一刀両断。自分ごと、他人まで斬っている。

「気持ちよい」を通り越して、痛かった。
ということは、ああいう記事を書いた頃から時が経って、今のわたしは少しは愛に目覚めたからだろうか。
いやいや、老化して、自分を労わるついでに、他人も労わっているのだろう。
自分に甘く、他人に甘い。
基準を甘めに設定して、自分を救済しようとする意図が見え見え。
美しき愛の本質なんぞ、お知りになりたい方は、マザーテレサに聞いてください。

自分をとことん知りたい場合は、自分が大好きなもの、コト、愛してきたもの、コト、してきたこと、したいこと、
それを追究すると、見つけやすいそうな。
魂を高めるもの、こころを満たし喜ばせたもの、夢中になったもの、それは、なんだったのか。

間違っても、寂しいからといって、トモダチとつるんでも、本当の自分は見つからないんだって。
わたしの友人の一人、ニーチェ君が言っていた。(→書いていた)

わたしの友人であるニーチェ君は、1900年に没しているが、わたしにバイブルを残してくれた。
本来は「師」と称したいところだが、あえて、友人にしておく。
なぜなら、わたしには、友人と呼べる人が、たいへん少ないからである。

 

・・・今日は、ここで終わろうと思っていたのに、ついつい、おしゃべりしたくなる。
(友人、少ないもので)
とある、安酒場で、哲学者風の初老の男性が、いつも単行本を3冊ぐらいカウンターに積んで、読書している。
見るからに、清貧。または、赤貧。
髪は、ねとっと、いつシャンプーしたのだろうと思えるような、油っぽい、天然※ポマード(※昭和世代ワード?)付き、白髪のストレートヘア。
七福神の一人のような、でも、貧乏神って、こんなかんじかな?というような、そんな風情。
彼は、その安酒屋に一人で来て、黙黙と本を読む。
そこに来る前は、大手書店でお散歩。おそらく、日課なのだろう。
なぜ、知っているのかというと、たまたま、わたしの事務所がその界隈にあるので、幾度となく彼の姿を見かける。
安酒場は、ドアがないので、通行人からまる見えであるが、そんなこと、哲学者は、気にしない。

〔しかしながら、よくよく考えると、自室で読書という選択もあるのに、あえて人の目のある外で、というのは、彼なりの 楽しみ方?
似非(えせ)哲学者かも?  斜交いに構えたフツーのじいちゃん?
(ちなみに、この人に関して、わたしは何の嫌悪も好意も敵意も共感も感じていません)
わいわい、がやがやのカフェでしか勉強意欲が湧かない学生のようなもの?〕

わたしは、まだまだ孤高の哲学者にはなれない。
そこそこ、自分の気に入った洋服を着たいし、人の目も気になる。
しかし、「人の目」自体が気になるのではなく、人の目に映った自分を、鏡を見るかのように、自分が気になるだけであって、
「人の目」自体は、自分を確認するための単なるツールである。

鏡=人の目
自分流、解釈である。
そう言えば、ふと思い出す。
数代前のおばあさんが書き残した文言に、「立ち向かう、人のこころは鏡なり」というフレーズがある。
こんな言葉だったかどうか、ちょっとあやふやであるが、
仏壇の引き出しに入っているからいつでもチェックできるものの、いつ見ても、原文を覚えられない。

その、おばあさんが、その言葉を書いたのは、今のわたしより3歳若い年齢の時。
(有名人ではないが)ほとんど辞世の句のようなものだろうか。
幕末を生きた彼女(厳密にいうと、亡くなったのは明治初頭)の言葉を借りるまでもなく、平成を生きるわたしが、自分でたどり着いた心境である。
時代は移れど、変わらないものもある。


カテゴリー: 未分類 | 投稿者ringson 11:29 | コメントをどうぞ

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