木曜日 九州の宮崎を沿って北上中
終戦記念日、太平洋戦争の生き残りはもう90歳を大きくこえている。毎年8月15日が近付くにつれ、テレビでは残酷にみじめに敗れ去った戦場の状況や映画などが放送され始め、終戦記念日が近づいたことがわかるのだ。
映画「硫黄島からの手紙」、ガダルカナル島での一木隊の玉砕などで胸が痛んだ。一木隊の生き残りの人を見つけ出して、厚かましくインタビューしていたが、その一声で顔が苦悩に変貌して、その様子を見ただけで彼がどれだけ痛ましい体験をしたか推し量れた。
戦争責任をうやむやにし、終戦処理を引き伸ばし、あいまいにしてきた付けが、今頃になってふつふつと沸きだしている。北方問題、韓国との関係、いろいろ言いながらも日本の国民性ではないだろうか?
あの頃は、まだ幼稚園で翌年4月に小学校へ、父親は病気で昭和19年にになくなっていて、田舎に引越し、祖父が持っていた二反の畑の片隅にあばら家を建て親子4人の大変な生活が始まっていた。今思えば身震いが出そう、お袋は幼子三人抱えて路頭に迷っていたに違いない。あるときみんなで別府の鉄輪温泉に出かけた記憶がある。片隅に広い温泉があって一人男が入っていた。なぜかそこだけが鮮やかにある。お袋は心中を考えていたらしいのだ。
大人になってのど元過ぎれば熱さ忘れる、その恩返しをどれくらいも出来ていないことを、痛感して、思いだしては心が痛む。