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ていちゃん

ていちゃん の紹介

60歳代半ばエルボーで打てなくなり、左右ダブルハンドに変えてベテランJOPに挑戦中。

今年を振り返る

金曜日 曇り

孫らと紅白を見る。
今年を振り返ろう。
1月 関東はコロナが拡散して、テニスの大会中止の方向に動いている。
近くの整形外科でMRIで肩の診断をしてもらうと、腱板断裂していると言われる。1年前の春頃のMRIでは断裂していないといわれていた。東京は医療崩壊が起きているのでテニスで来るのは、反対と娘たちからラインが来る。肩の状態から言って勝てるような状況ではないのに、気持ちだけはその気になっていた。行っていたらと今考えるとゾッとする。

2月 右でのサービスの練習。左手でのトス、腕を上に振り上げるのが痛くて、練習は困難だ。左の両手打ちは振り切ったところで痛みがあり、ままならぬ状態が続いている。

3月 九州毎日のドローが出ていた。今思えば試合に出る状況ではなかった。
またも
4月 「九州毎日またもyanoshiに完敗した。今度こそリベンジしようと密かに狙っていたのに、残念無念、サービスが全くうまくいかなかったので、致し方ないのだが、おまけに相手のドロップショットに翻弄されての敗退には情けなかった。」結果として彼が優勝していた。ぼくは一回戦BYE、2回戦勝利、3回戦敗退でベスト8。「九州選手権、明日が締め切り、どうしょうかと迷っている。」

5月 「コロナウイルスは終息どころか、全国的に増加現象、大都市圏はさることながら、地方都市でも確実に増加傾向にある。行政は躍起になっておこっているが、オオカミ少年に半信半疑になった国民は言い訳しながら、言うことをきかずに、出回っている。」
「県内、聖火が走るのをテレビで見る。矛盾だらけの催しに思えた。」
熊壮会「サービスの出来映えが確認できると喜んではいたものの全くダメで、ほぼアンダーサービスで通していた。」ウイナーとなっていた。
「北九州トーナメント初戦敗退」「6月の九州選手権、今度は初戦で対戦となっていたので、そこで頑張ればいいと考えていたが、まさかの九州選手権が中止になっていると彼から聞かされて、寝に身に水とぼやいていた。」「九州選手権を終えたら最後の望みをかけて、紹介されたいた病院へ行ってみようと考えていたので、それが早まっているのに気が付いた。」

6月 「4月に行われた九州毎日テニス選手権の会場で、何年か前に肩の手術をされて完全復活している選手とお話しする機会に偶然に恵まれいた。テニスと同じように丁寧に教えてくれたのにはうれしかった。いつか診察を受けて、ぼくの齢では手術は無理だと言われれば、もうあきらめて、アンダーサービスやら、右でのサービスサービスで楽しもうと思っていた。 北九州の翌日、診察を受けるには予約をと聞いていたので、0120のダイヤルを回した。いやプッシュしていた。応対の女性に自分の肩の経過を話して、自分の齢で手術できるか見てもらいたいと話した。女性は細部にわたって問いただしてきた。明日の15時に来れるなら来てください。MRIのCDとか、常用している薬のことなど、用意できたものを持って18日火曜日デイズを走らせた。」

6月15日左肩腱板断裂手術して7月21日退院。通院リハビリは家の近くの整形外科にお願いする。月に一回手術病院でのチェックとリハビリ。術後2か月で車の運転許可がでる。
4-5か月で地元でのベテランの試合出ようと思っていたら仲間から反対された。それで半年のMRIの検査を受けて、経過は順調だとの説明があってサービスはアンダーサービスならよいでしょう。ストロークもOKと言われて、そろそろ始めてみようと、運動公園での仲間の練習に参加させていただいた。1回目4ゲームのダブルス、もたもたしながらも何とかついて行って3セット、疲れを感じて4日ほど休んで、金曜日2回目の参加をした。ずに乗って5ゲームやったのがオーバワークだった。左手がサービスのトスで痛みを感じ出していた。
首筋や肩が凝り固まった感じがして、それが今日までとれないでいる。色々やっているけれど違和感は解消せず。しばらくは何もせず休ませようと考えている。

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本当に久しぶりに街にでて仲間と忘年会❓

金曜日 晴れ

昨夜は久しぶり運動公園仲間と街中での三蜜の集まりあり、これ忘年会だったのかな⁈と振り返ることになる。最初、M氏がぼくたち何人かで飲食割引を利用しての会食を試みていたのだが、うまく行かずに、どうも切り替えた結果だと思えた。それはそれでよかった、ぼくにとって皆と顔を合わせるチャンスでもあった。

6時集合、4時52分のバスなら楽勝と出かけたが、乗車してしばらく行くと間違いだと気が付いたが遅かった。年末の夕刻の大渋滞に遭遇、さもありなんと気が付いた。

ここのグループ、運動公園での練習には、肩のこともあり参加は時々でしたが、知らぬ間に見知らぬ人たちが参加して盛況になっており、人見知りのぼくは戸惑っていた。アルコールはだめだし、グルテンフリーを心掛けているぼくは食べることに専念していた。

今日は貸していたネットをもらいにローンコートへ行く。コート外壁の金網の支柱が道側に倒れ掛かり、問題になっていた。それを修理するにボールが道側に跳び出してゆくので防ぐものが必要になり、電話があったのだ。肩手術の直前だったので記憶にある。それは困るだろうと、ぼくは急いで持って行ってあげた。

退院して行ってみると工事は終わっており、ネットは必要でなくなっていると思えたが、
何の連絡がないのには、前回もそうであったが、今回もかとチョット残念だった。かなり残念でした。

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冬到来、初雪があったとさ❓

金曜日 雨 曇り

日本列島に寒波が襲う。

青春の門⑥(再起編)読み終える。
小説などほとんど読んでいなかっのに、文庫本の小さな文字を昼間は窓際に座って読めば裸眼で読めたし、夜は拡大鏡をで夢中で読んでいた。こんなに夢中になって読んだ小説は初めてのこと。何か書きたいのだが、頭も中には何かが渦巻いていて、なにも浮かんでこない。7巻の挑戦編は6巻を読み終えてから買ってきたが、もう読む元気がなくなっているのに気が付いた。この小説のシンボル的存在の香春岳が何度も出てくるが、その理由がわからない。小説を書き始めたころにも、香春岳は山のていをなしていないくらいに朽ちていたと思う。今はもう更地と言っていいほど状態になっている。

6巻の最後に解説があり映画化され、テレビで3回放映されていることを知った。そうそうたる俳優陣が出ているのが分かって、如何に注目を集めていたかを知る羽目になっていた。映画もテレビも見ていないのだ。

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術後半年の検査  はじめてのテニスコートで

水曜日 晴れ晴れ

半年後のMRI診断の結果を聞いて、今朝は運動公園へ出かける準備をしていた。橋げたの壁打ちは何度もしたけれど、コートでの練習はしていない。手術のおかげでサービス右でのトスが出来るようになり、サービスも何とかなりそうな気がしているのだ。

仲間が楽しんでいる4ゲームのダブルス、どれだけ通用するのかダメもとで厚かましくもお願いしていた。天気は良くて言い訳なし、足がもたもたしてサービスも希望するサービスは入らず、何とか3ゲームを終えて限界に達していた。これを機会に、よわいを考えながら、テニスを頑張ってみよう。
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きのう14日は術後半年の検査を受けに、期待を胸に二人でデイズを走らせた。広川のパーキングでいつも小休止して時間を見はからってから、予約時間に間に合うようにして、今まで順調だったのに、油断大敵のだい失敗をしでかしていた。高速を120キロで飛ばして、軽ではやばい速度と感じていたが、それで何とかMRIの時間に滑りこんでいた。

MRIの20分近く、あの騒音は心地よくない、我慢して終えるとリハビリ室で入院時と同じ担当者が筋力の測定と腕の可動域の測定して前回のデーターと比較して説明してくれた。

ここを紹介してくれたyurinoshiが診察に来たことも話してくれた。肩の調子がおかしくて来られたらしいが、手術跡の問題ではなかったらしい。それを聞いてほっとしていた。それで名古屋は欠場したと話していたと言う。それは全日本の大会を欠場したのだと思った。

それから担当医の診察室へ。MRIの入院時の映像と今日の映像を並べて説明があった。予定通りの結果が出ているような説明がある。ストロークは良いがサービスはアンダーサービスでやって下さいだった。遠方で大変ですが2か月の1回また来てくださいで終わっていた。

予約日をプリントアウトして清算して帰ろうとしていると、理学療法士リハビリのyanagiharaujiがやってきてリハビリがありますという。確かに受付でもらった日程には最後にリハビリと書いていたが、診察を終えたとき予約日をうんぬんと言ったので、これで今日は終わりと勘違いしていた。

もう彼らのリハビリはほとんど必要ないと感じているのだが、必ずあるのは必須科目なのだろうか。術後の何週間か、この痛みが本当に取れるのだろうかと、半信半疑の時もあった。毎日午前午後と少しづつ、少しづつ痛みを和らげて可動域を広げる理学療法のおかげで、改善していったのは、今思えば療法の蓄積のなせるワダだったのだと感謝している。

リハビリ室を出たところで女性が挨拶をしてくれた。マスク姿で分からないと、エコー検査担当の彼女だった。三回撮ってもらっていた。後の2回の時は順調ですよと励ましてくれたのが嬉しくて心強かったのを覚えている。

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鳥栖の大きなインターチェンジ、長崎道方面に左折して料金を精算して出て長崎方面に行く途中に三か所ほど鳥栖方面に左折する道がある。間違えるとまた長崎方面に入らなければならない。いつも慎重に運転しているのだが、この先だと思ってアクセル踏むと料金所が目に付いた。しまったと思ったがもう遅い、Uターンは禁止、止めて係員にうんぬんと目に付いた。次のインターで下りて聞いてみようと追い越し車線を久しぶりに飛ばした。メータ系は70キロがセンターでマックス140キロだ。神埼インターが目に付いた。清算して側に止めて近くにいる人に尋ねて係員を呼んでもらった。料金を戻すにはどうのこうの言い出したので、料金はいいです。それならこのまま出て、高速に乗って下さいと言う。

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真珠湾奇襲から80年   12月8日

水曜日 晴れ

テレビで色んなことが放映されている。

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この写真には「昭和十六年春のある日」と墨で書かれている。日本がアメリカに対して宣戦布告して真珠湾を攻撃した年の春の出来事。

父はどんな気持ちで家族写真を撮ったのだろうかと、この齢になって、つくづくと考えている自分がいる。肺を病んでフィリピンより引き上げてきて、こんな田舎街でひっそりと写真屋をやっていたのは自分の病状をを考えてのことだろう。借家の普通の家で裏にはすりガラス張り写場があったのは記憶がある。

何を思ったのか父は香春神社の中で家族写真をとっていた。箱型の大きな昔の写真機、木製の長い三脚を取り付け、黒い布を写真機に被せて撮るのだ。覗くとさかさまに写っているはず、父も一緒に写っていればその当時の面影を知ることができるのだが、父の写真は沢山あるが、じかに見たり抱いてもらっありの記憶はない。一部屋に閉じこもって寝ていたようだ、接触の機会がなかったのか記憶がないのだ。
当時2歳だったぼくにはその記憶もない。まともな治療もできずに父は終戦の前年、19年に亡くなった。どんな気持ちだっただろうか、幼子を3人残してどうすれば良いのか、父が死んでから母は田舎に引っ越して、父から学んでいたのか大きな写真機で写真屋を細々と初めていた。技術もまだ未熟で人伝での仕事を時々やっていたようだ。母に色々聞いておけばよかったと後悔している。父は戦争中に香春町に寄付金を何回も収めている。感謝状が兄のところに残っていた。まともに写真の仕事は出来なかったと推測するが、すこしは貯えがあったのだろう。

あれから80年の歳月が流れている。界隈のたたずまいはほとんど変わらない、ぼくたちのことを知っている人たちは、もうほとんどいないだろう。

今度行ったら石段をチェックして、どこでどんな風にして写したのか、探索してみたいと思っている。

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陽気に誘われ運動公園に出かける

月曜日 晴れ

朝からあまりの陽気に、運動公園では熊そう会も行われているし、出かけて見たくなった。

東バイパス入り口から運動公園へ行くと、入り口に昔からあった「火の国ハイツ」なんどか通って閑散としているなあと思っていたら、どうやら閉鎖しているようなのだ。ここは現役時代はよく利用させてもらっていた。できた当時は入り口近くにスポーツジムがあり、会員になって鍛えたけど成果はなかった。最上階には温泉がありここも良く利用したものだ。

舞台付きの畳の大広間では会社の忘年会も何度もしたいと思います。団地の青年部のゴルフ大会でホールインワンをして、そういえばここで青年部の連中と会社の女性を二人ほど来てもらった祝ってもらったのも懐かしいです。

「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり」こんな言葉が頭に浮かんできた。仙台方面に社内旅行したとき、芭蕉の「奥の細道」出だしの文章をしっかり覚えて夜の宴会のとき、あいさつしたのも懐かしいです。銀杏並木の黄色は終わりに近く、それでも少しは残って楽しませてくれた。

https://youtu.be/qkUCYsxNd7I

テニス仲間の練習コートに顔をだして久しぶり会話する。今日は熊そう会をやっているはずとCDコートまで出かけたが、セミの脱け殻みたいだった。日にちを間違えたに違いない。

直ぐ横にある壁打ちコートでは、風呂友達が練習しているのに出くわした。

 

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師走となって冬到来です

土曜日 曇り 晴れ

テニスの結果をチェックするのがおろそかになっている。テニスで放映される試合はほとんど見ているが、日本選手の姿がないので興味は半減いかになっている。錦織の後継者がそのうち出てくるだろうと、誰もが思っていたはずなのに、30代に突入した圭に期待するのは、次々と現れる外国選手若手の活躍を見ていると、無理無理無理と思わだるを得ない。

大坂なおみ選手もあんなことになって、もうテニスの意欲も失われている気がするし、テニスをしなくても知名度が高くなっているので、ハングリーがなくなっているので、出場しても今迄みたいなことはないだろうと思える。

今年締め括りのATPファイナルズ決勝戦、ズべレフがメドベージェフを6464で破り優勝した。SFで本命と思われたジョコビッチをズべレフは積み重ねた経験と若さで勝利し、予選リーグではファイナルのタイブレークで敗れていたズべレフに決勝では破ったのだ。ズべレフ、メドベージェフと若手の力が安定してきて、レゼンドのフェデラー、ナダルが後退しているので、一人で頑張っているジョコビッチも疲れを感じているだろう。

来年はいよいよ世代交代の年と確実になることだろう。

 

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今日から師走とは

水曜日晴れ   

今日から師走。あーちゃんがカラオケに行っている午前中、アロエをぼくの寝室へと運び入れた。夕方の天気予表では明日から零度近くまで冷え込むというので、タイミング的にはピッタリだった。一回でも凍らせるとそれで万事休すになるアロエなのだ。

干し柿も50個くらい吊るして今週いっぱいくらいから、食べられそうになるかもしれない。
季節柄なのか白菜が、さんふれあー温泉の市場に溢れている。今年も一つ買って漬けたのだが、レシピを見らずに昨年上手くいったので、うろ覚えのまま漬けて失敗した。塩不足だった。
塩分を取りたくという先入観が働いたのかもしれない。漬物漬けるのはいいが塩分を摂取するのが気にかかると、温泉仲間に語ると苦笑いされた。

彼は自分で作った干し柿をコートに持って行って皆から喜ばれた、と今日も温泉でにこやかに話していた。ストロークだけを楽しめばよいという彼、相手を探すには、そんなことも大事だよと風呂話で語ったこともあった。今日もまた柿を買いに行ったという。ぼくも顔を出す近くの野菜市場、彼は遠いのだが、そこがいいらしい。ぼくも今日温泉の途中でよって見た。安くなっていればと思ったが、期待に反したのでやめたのだが、彼は買ってたらしい。そんなことを言うと彼は表情を見せたが、前に買ったのがひと包み500円くらいだった、ていどはよく見えたが900円位の値段が付いていたからだったし、吊るしている柿で十分という気持ちもしていたのだ。

昨年は植えていたまだ幼い柿の木に、たわわに実がなり驚いていた。それで買うことぜずに済ませたが、今年の収穫はゼロだった。なるのはへんねんおきだと誰かが言っていたが、多ければ摘花しなければいけないともとPCで勉強した。今年はほとんど成長を見せていない柿木、昨年のタワワの実が影響したのだろうかと、少し心配している。 

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震災で壊滅した南阿蘇ペンション テインクナへ

金曜日 晴れ

日奈久の宿での娘との会話。ネットで探して日奈久温泉と決めたとき熊本近郊を調べて、北海道のうんぬんという南阿蘇のペンションも検討したという。
南阿蘇のペンション村は熊本地震の時甚大な被害をうけていて再起は無理だろうと、ニュースなどの報道で想像していたので、そのことを話すと、その変わった名前のペンションのことも言ったのだ。北海道の輝き「テインクナ」、まさかと驚いていた。

2015年熊本震災の前年、プレミアム旅行券「熊本をもっと楽しむ券」が発売されて購入していた。残った券を有効期限のぎりぎりに、ネットで探して阿蘇へ行ったとき何度か前を通った記憶のあるペンション村、北海道の輝き「テインクナ」へ申し込んだ。

「2015年10月15日 テインクナ ペンションで 南阿蘇」のブログにそのいきさつは書いていた。娘の勧めもあり迷っていたが、どうなっているか行ってみようと、「ペンション テインクナへ」へ申し込んでもらっていた。

一昨日、そのペンション村の「テインクナ」へ出かける。地震で崩落した阿蘇大橋も再建されて今年開通していたので、ちょうどいい機会でもあった。新大橋までの阿蘇路は道路も立派に改修されていて、スイスイといくことができた。右折して真新しい阿蘇大橋を渡ると高森までの一本道の道路が続いている。しばらく行き、この道だったっとた左折して阿蘇山道へ抜ける道を登って行く。この辺だったと、徐行して探すがペンション村と書いたあの坂道は見当たらなかった。

南阿蘇と書かれた住所をナビに打ち込むと、えらく離れた場所なので、電話番号を打ち込むと同じ辺を表すので、そこに向かってハンドルを切った。高森方面の道路を高森近くまで、登山道路を越えてから左手の山道へと案内があった。ペンションの案内がいくつかあって、細くなった道を山腹まで登るとペンションの案内板に名前があったのでほっとしていた。
先客は一組の夫婦そしてぼくたち。物静かなあの時のオーナーとおぼしき人が出迎えてくれた。雰囲気や料理は前回と同じフランス料理だった。サービスと出されたグランワイン一杯にアルコールに弱いぼくたちは酔いしれて、満腹になっていた。
翌朝はパン食を頂き9時過ぎに初冬を感じさせる宿を出発する。久しぶり南阿蘇をゆっくりと一周して昼過ぎには我が家にたどり着いていた。

詳しくは聞けなかったけど、その建物は知人から譲り受けたもので、3年前にオープンしたという。大変だっただろうなあと想像する。そこは同じようなペンション作りの建物が二棟あったが隣の建物は住宅に使っているという。ペンションの前にも木立に囲まれた和風の家があったが、消えかかった案内板には染色か何かをやっていたようで、会社と受け取れた。高く伸びた木立には「売り物」の札が見えた。

この南郷谷でも日奈久と同じようなことが起きているのだと思った。熊本地震で再建を残念した人たち、後継者がいなくて空き家になっているペンションもあるのだとも思った。

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ローンテニスコート行ってみたけれど

金曜日 晴れ

昨日久しぶりにローンコートに顔を出してみた。12月上旬行われる熊そう会年齢別なら、無理をせずにできるかもしれないと思って申込んでいるが、左足の股関節が痛みだし、左肩も一昨日定期診察でのリハビリで理学療法士から言われたことが、頭の隅に引っかかっていた。どこの痛みかわからないが、左肩はなんとなくギクシャクしている。

ローンに行ってお姉さんたちにお願いしてワンセットすれば自分の現状が理解でできるかもしれないと考え、彼女たちが集まる頃を見計らって出かけみた。彼女たちのやっている隣のコートがあいていたので、右でのサービスの練習、右でサービスは大丈夫だと確認し
て、ゲームが終わったのでお願いすると、まさかの返事が返ってきたのでびっくりした。

完治していないと思われるぼくとのテニスは、怖くてできないという内容の返事だった。いや、右でサービスしますから大丈夫ですと言ったが、かたくなだった。

あの人とも、もうテニスはしていません。遠くのコートの隅っこ、椅子に座りゲームを無言で見つめている翁が目につく。ぼくとほぼ同世代のここのオーナと見かけた。

以前はやっていたのでした。よぼよぼのテニスにお姉さんたちが付き合っていたのを、覚えている。倒れでもしたら大変です、ここでテニスができなくなるから、それを聞いて納得したが、ぼくが倒れてもそんなことはないのにと、だがお姉さんたちのぼくへの思いやりだと理解して、完治したら、その時はお願いしますとコートを後にした。

夜、グループ受付の仲間に電話した。「ごめん、ダメだと言われたので、キャンセルしてください」。先月も同じようなことでキャンセルしている。人の良さそうな彼の困惑した顔が浮かんだ。

カテゴリー: 日記 | 投稿者ていちゃん 10:22 | コメントをどうぞ