昭和41年(1966)10月24日月 晴れ
私の誕生日
21日より今日までとTさんと二人で旅行する。21日の夜行で日向に行きそこからバスで椎葉→国見峠→本屋敷→熊本という計画だった。
門司港発21時21分の汽車に乗るため八幡駅20時37分の門司港行きで門司港まで行き、そこで乗り換えた。夜行列車である。思ったより乗客は多く門司港まで来て良かったと思った。金曜というのに小倉で身動きできないほど満員になる。
目的の日向には22日の4時53分着である。汽車で夜中を過ごすなんて、高校の修学旅行、いや、長崎へ受験で行ったとき以来夜行列車なんか乗ったことがない。ふと、昔のこんなことが思い出されて、感傷的な気分になり、この列車この真夜中を突っぱしり過去の世界へ、自分を連れて行ってくれたら・・・、前に坐っているTさんは何を考えていることやら、なかなか時間がたたない。体は疲れているはずなのだが、腰掛けて眠るなんて器用なことはそう簡単に出来るものではない。外はまだ暗い。
日向駅の待合室で上椎葉行きのバスを待つこと二時間あまり、外はかなり冷え時間のたたないことおびただしい。Tさんの持ってきたおにぎりを食べる。あまり食欲なし。
東の空が薄明るくなり簡素なじんまりとした日向の夜明けがやって来て、七時十分発のバスに乗る時間が来た。前からにばん目の座席に座った。前方の景色がよく見える。
バスは耳川に沿って上流へさかのぼって行く。まだ稲は刈り取られていず、早朝のすがすがしい田園風景が展開された。
上椎葉まで二時間余り、途中いくつも小さなダムがあり、だんだん山の谷にあいに進むにつれ道の曲がりがはげしく、谷も深くなり青い水が美しく流れている。 おそらく山の中の 部落 だろうからと思い食料等を用意してきたのに思いの外開けていて 生活必需品は 何でも買えそうであった。
バスを降りて 次の利根川行の時間を調べてから 近くのおみやに登った。 ポカポカと温かく 申し分のない 天気であった。 谷間の部落 から陽気な流行歌がスピーカーから流れていて、シンと静まっているはずの谷間の静寂を破っていた。
神社の上で 石に腰掛けて持ってきた 食料食べる。 写真で見た大きなダムがあるはずなのにどの方向か見当がつかない。 Tさんはかなり疲れていてダムなど探して見物する気はないようだ。 仕方なし 一人で部落方向に 行く。 出会ったおばさんに尋ねるともう少し上流に上ったところにあるとのこと。 せっかく きたのだからと思い引き返しTさんを 連れて一緒に上流へ行く。 木材を切り出すだろう道は広く、そして車が通ると砂埃を浴びた 。
10分ほど歩くと 橋があり、その橋から右手前方に高くそびえたダムがあった。 我々の 位置は谷底に近いところで、ダムにたどり着くまでは、かなり急な道をうかいしていかなければならない所にあった。Tさんは行かないと言うので荷物を持つてもらって、もとの神社で待っているように言って一人出かけた。近くの家でだいたいの道を聴き登る。
橋を渡り急な崖道を登って行くと中学校があった。こんな崖の中にと思われるところに学校があるのだ。山腹を削り取って平らにし、まだ新しく新築中の校舎もあった。ダム目指して近道しようとしたが失敗した。中学生の一人に尋ねると学生らしく道を教えてくれた。
中学校を少し登ると車が通れる道があった。これはダムの周囲通っている道だろう。バラスのしかれた道を行くと、今度はダムよりかなり高い位置にでた。そこからはダム全体が見渡せた。たっぷりと水をたたえた大きな湖があった。道の間の小道からダムに下りていった。
人は私のほか誰も見かけない、ここは驚くほど静かだった。無理をしてTさんも連れてくるのだったと後悔した。ダムサイトを反対側に渡り、今来た道を逆に帰ろうと思った。この山腹を歩いて行くと、Tさんのいる神社に平行した道だから途中から、谷間に向かって下るとたどり着くはずだ。途中からななめに谷に向かっている小道を見つけて歩く。
ドングリがたくさん落ちていた。それ拾って歩いていると、うまいことにその道はちょうど神社の裏側に続いていた。Tさんは夜行で来た疲れがでたのか、土手で横になって目をつむっていた。
十根川行きのバスは二時と聞いてた。
Tさんは二時半だといったが気になったのでバス停に行った。バスはやはり二時で、バス停は学生がいっぱい順番で待っていた。土曜日なので中学生の帰校時間と一緒になったのだ。超満員であったがどうにか乗れた。
終点十根川まで40分。
そこは耳川の支流の一つ、十根川沿いにバスは上椎葉より少し引き返し、そしてこの十根川沿いの谷間を登ってきたのだった。中学生も皆降りた。まるで学生の貸切バスみたいな感じだ。彼らはこの細い耳川沿いの谷間に点在する部落から、あの上椎葉ダムのすぐそばにあった中学校へ遠い道のりを通学するのだ。
これから先の私の計画が、どれほど無謀であったが知る由もない我々はバスを降り一息入れてから、これから長距離を歩かなければならないと覚悟を決めて、ナップサックを背中に担ぎ直し出発した。13時50分。
我々は6時頃までには仲塔→胡摩山→国見峠をこえて本屋敷にたどりつき、そこからバスで熊本まで行く計画なのだ。同じバスで降りた中学生の女の子二人と一緒になった。
私が話しかけると、一瞬彼女らの顔が恥じらいた。そしてその理由は後ろ手にしていたコッペパンのせいであることがわかった。中学一年生、セセーラ服まだ板につかないとといった感じがした。
本屋敷までの道のりを色々とたずねた。彼女らはどれくらいの時間がかかるとか、正確なことは言葉を濁していたが、小さいとき国見峠を越えて本屋敷まで行ったことがある、それも1日で往復したのか、1日がかりで行ったのかよく聞き取れなかったが、聞き直すのはやめた。
彼女達の家は国見峠の麓だ、そこから峠を越えて行った、それも子供の時に行けたのだから、若い我々であれば、何とか予定通り行くに違いないと内心不安を感じながら思った。
でも途中の渓谷美はすばらしく、ともすればそれに見とれて、足が遅くなったのもたたっていた。私はTさんにハッパをかけメゾのつくところまで、ピッチをあげたいと思い急がせた。
2時間も歩くととみよ君が足が痛いと言いだし、中学生から追い越されてしまった。
4時頃峠の麓らしいところまでやってきた。腰を下ろして一息入れていると上の方から子供をつれた嫁と姑とめらしい三人が通りかかった。
ここから本屋敷までどれくらいかかりますかと尋ねてたら,女の足で3時間くらですねと言った。野良仕事の帰りらしい、もうそんな時間なのだ。それを聞いてホットした。3時間くらいなら7時には本屋敷に着くことが出来る。
いくら田舎でも最終バスには間に合うだろうと思ったからだ。
我々の歩いている道は国道265号線、でも車は1時間ほと前に蘇陽町のタクシーが一台通っただけ。国見峠はこの車道を通らなくて途中から山道を通る近道があると、ぼくが椎葉に興味をもった、ここを案内の新聞には書いていたが、途中でたずねた百姓のおかみさんらしき人は、その道を教えてくれず、女連れだからこの道を教えてくれたのだろう。
だんだん登につれて紅葉は美しい、あの中学生が胸をはって言っていたように、もうしばらくすると、もっとすばらしいだろうと思われた。峠の山道に入って道は今までより急になったが、それでも国道で車が通れるくらいの林道、石ころが多く、ダラダラとなだらかに迂回をしながら、この道は峠に続いて続いているはずだが、歩けども歩けども峠には行きつかない。あの曲がり角を曲がれば、あの曲がり角を曲がればと、いくど思ったことだろう。
Tさんはすっかり疲れ切っているようだ。その上に足も痛いと言う。でも弱音を吐かずにもくもと歩く。
小石が多くそれが足をうばい、Tさんの歩調はずっと落ちた。
あたりはかなり暗くなり、山にはもう夜のとばりが降りようととしいる。
道脇に真っ赤に紅葉したモミジが見つかった。すごく印象深かったのでその前で、おそくなりついでだと思い写真を写す。
国見峠にたどり着くまでに懐中電灯が必要となった。
そして峠にたどり着いたとき、日はとっぷり暮れて山の上には月が出ていた。
峠に着けば本屋敷はすぐ眼下に見えるのだ、なんてとんでもない錯覚にとらわれていたのだ。峠までの道のりはTさんの足が衰えていたとはいえ、事実遠かったのだ。
峠まで行けば何とかなるだろうと思っていたのに、そこでこの計画が無理であるということを知らされる。峠の向こうに続く尾根と尾根と暗闇の中の深い谷がそれを証明していた。
時計の針は七時をさしている。今からどうして熊本市まで行けようか、我々二人は今九州のど真ん中、それもこれから先の道もよくわから山中にいるのだ。とにかく人家のあるところまで歩く以外に道はない。
ジャリを敷いた道は、車の輪のあとを残して中央に盛り上がっている。
そして枯れ枝だと思っていたそれが、蛇だったと分かった時は、一瞬ギョットして立ち止まった。懐中電灯の灯りの元で、確かに動いている。蛇に間違いないのだ。
そのために我々はほとんど動けなくなっていた。私は本当に不安を感じ始めた。
峠からかなりくだった時、ライトが峠の方向で光って消えた。二人は一瞬立ち止まり顔を見合わせた。
またライトが光った。車に違いないのだ。