前述したとおり、今日も5時過ぎに起床・・・昨夜は “ガキの使い” まで起きてたんですけどね。
火野正平さんは、福島に入りました。 相も変わらず癒されています。 入院と同時に始まった、“春のワルツ” の視聴も続けています。 こちらは今回の病気と切っても切り離せないワードになってしまいました。
術後3日目くらいに放送されていた、“今を生きる” も記憶に刻まれました。
入院中、時間を問わず、頻繁に救急車が出入りしていました。
僕もこうして運ばれてきたんだなぁー なんて、天井を見ながら呟いてました。
だいぶ落ち着いてきて、当時の事をいろいろと思い出してきました。 せっかく生き残ったので、今回の事を忘れないためにも、思い出せてるところだけでも、記していこうと思います。
~あらまし~
2016.4.24 PM9:24・・・救急搬送~緊急手術
強い胸の痛み(硬い平らなもので胸を押しつかられている漢字)に耐えられず、119 通報。
スマホを片手に、少し躊躇する。
大ごとじゃなかったら? とか、近所迷惑とか。
しかし、結果的には自分で連絡できてよかった(と、皆が口を揃えて言う)
4.24(日)~4.26(火)・・・ CCU(心臓に特化した集中治療室)
4.26(火)~5.9(月)・・・一般病棟
<発症当日>
日曜日だったので、朝8時10分からのレッスン。
起きた時に、ちょっ胸に痛みがあった。 これについては、はっきりと記憶してる。
その痛みも、昼には気づかないほどに。
そして、21時過ぎ、急に胸に重い痛み・・・。
じっとしていられず、胸を押さえながら右往左往。
たまに、“ドン、ドン” と胸をたたいてみたりしてた。
気持ち悪いのか? と思い、トイレで無理やり吐く。
しかし、変わらぬ痛み。 経験したことない痛み。
部分的にではなく、胸の広範囲にまたぐ痛み。
息が出来ないことはない。
この時初めて、“こりゃ、やばい”、
“死ぬのか?” って思った。
そして、躊躇するも、119番通報。
21時24分・・・
この時間は、119した時の履歴から判明。 (その後、このスマホから救急隊員によって母にかけられた時刻が21:54)
実は、胸の痛みが20時半くらい・・・なんて記憶していたのですが、かなりのずれがありました。
119番に電話、
“火事ですか?救急ですか?”
から始まり、胸の痛みを伝える。
住所がうまく言えず、番地が入れ代わり立ち代わり頭を過る。
何とか通じたよう?
“玄関は空いてますか?”
と言われ、思わず、“空いてます” と嘘をつく(*_*;
この電話の時には、もう立っていられず、居間で横たわっていた。 既に意識がもうろうとしていたが、無くなってはいない。
しばらくして、救急車の音で意識が戻り、
“玄関のドアを開けなきゃ”
と、思い出し、這ったまま玄関へ。
立てないので、上半身だけ起こし、右手でドアノブを探す。
目が明かないので、すべて手探り・・・。
ドアの外では、“落ち着いてください” と救急隊員。
いやいや・・・落ち着いてるけんだけど、何がどうなって・・・
と言う感じ。
四苦八苦しながら、何とかドアを開け、数人が家に飛び込んで来た。 3人くらい?
僕はそのまま、ぱたりと倒れ、その直後、吐いてしまう・・・。
吐き気があったわけでなく、倒れたとたん、急に吐き出したのであった。
もう、救急隊員も、“こりゃ、大変だ。まだ出るぞ!” なんて騒いでた。
こんなやり取りの最中に、何度も名前の確認は行われていた。
“藤田さん、タオルはどこ!?” と。
“トイレの、、、いや、お風呂の前の・・・” と返事。
“お風呂のどこ!?”
“・・・上です”
“あーぁ、あった、あった!!” と。
“使っていいですね?”
いやいや、もちろん・・・(とは答えず)
“どうぞ・・・好きなだけ・・・”
と言う感じのやり取りで、玄関先はとってもきれいに清掃されていた・・・とは、その夜そこに帰ってきた母と妹談。
まとめて風呂場に置いておいてくれたらしい。
(その後、それらは母の手によって綺麗に元通りに・・・まだお礼言ってない)
その後、毛布のようなものに包まれ、抱えられるようにして救急車へ・・・。
意識はほとんどないのですが、声は聞こえていました。
“誰か連絡とれる人いる”?”
“・・・母が東京に・・・”
僕の指で指紋認証し、電話してもらう(これが54分)。
“息子さんが心臓の痛みで救急搬送されてます”
とか言ってたかな。
“今から来られますか?”
“そう、1時間半くらい!?”
とか何とか。
さすがにビビったらしい。
そのまま妹に電話。 なかなか繋がらず、家電でやっと繋がったらしい・・・。
妹は朝霞台から、母は牛込柳町から来てもらうことに
その後、心電図、血圧、脈等々を計測。
“藤田さん、あなた、心筋梗塞だからね!!!”
と・・・。
いやぁ、そんな感じはしてたけど。
その夜は、ちょうどテレビで前田健さんが倒れたと速報が流れたのを見てたばっかりの時でした(*_*;
その後、“だめだ・・・” 発言。
聞こえてるんだからね!
“僕は死ぬんですか?”
と聞いたのですが、誰も答えてくれず(既聴スルー?)、
とりあえず、
“母と妹に、ありがとうと伝えてください。心配ばかりかけてごめんなさい”
ってお願いしたのですが。
もしもの時には伝えてくれたのかしら?
そんな感じで救急搬送され、そのまま手術室へ。
メガネを置いてきてしまったので、0,01の視力では何も見えず・・・却ってそれがよかったかも?
銀色の器具や装置に囲まれている感じと、まぶしいライトだけの記憶。
ストレッチャーから手術台に移され、服を脱がされ、剃毛され・・・
僕の記憶が正しければ、まず行われたのが、脈が安定しないという事で、右足付け根に外付けのペースメーカーを取り付けたこと。
この取り付けの際に僕のサインが必要だったらしいのですが、
“これつけないと死んじゃうからね! 僕が代わりにサインしておくからね!!”
と一方的にまくしたてられる。
いやいや・・・
それは、お願いしますよ。
一刻を争ってる感じですから・・・。
“・・・はい” と。
断る人はいないよね。
このペースメーカーをつける時が痛かった。 朦朧としていた意識が戻るくらい痛かった。
んー、とね・・・内腿をつねられて、更にそこを回転させるくらいな感じ。 さすがに声が出ましたからね。
その後、尿道カテーテル。
こちらも初体験。
女子より男子の方が長くて大変らしいです。
結構長く入れてました、膀胱まで20㎝くらい。
よく取れないなぁー、なんて思ってましたが、入れた先に風船みたいなものがあって、そこを膨らまして、抜けないようにしているとの事。 いろいろ考えれれてますねー
そんな感じで、足の付け根はペースメーカー用に使ってしまったので、心臓へのカテーテル手術は右手首の動脈から行われたようです。
造影剤を入れて状況を見て狭窄を探し、その部分を風船でふくらまして、ステントなる(コイル状の金属でできた円筒)ものを留置します。
僕の急性心筋梗塞の原因になった狭窄は、右冠動脈の根本でした。 詰まった部分の範囲が広く、ステントは2つ入れたとの事。 長さはいろいろあるようですが、初見では一つで足りると判断したのか・・・?
という事で、手術時間は長くなったようです。
手術中、“3mm”、だとか、“5mm” だとか、かなりの回数、長さを伝え合うシーンがありました。 血管の長さを確認しながら手術していたのでしょうか? ものすごい臨場感でした。
この場合、臨場感? じゃないか・・・。 ほんとの現場だもんね。
部分麻酔だったので、すべて聞こえてました。
前述したように、目は見えなかったんですけどね。
日曜の夜という事で、インターンらしき若者が多かったようにお見受けしました。
手術後に頭の後ろにタオルを入れてくれた看護士さんの顔だけアップになったのでちゃんと見えました。 すごい美人だったような・・・。
しばらくして、手術室を出てCCUへ。
術後3日、急性期に病状が変化しやすい病気なので、心臓専門医による持続監視が必要だったよう。
手術室を出たところに母と妹がいた。
取り急ぎ、“ごめんね” と詫びる。
そのままストレッチャーで、暗い廊下を移動。
“今、何時ですか?” と聞くと、
“0時半です” とのお返事。
2時間弱くらいだったようだ。
とりあえず生き残ったのですが、当時は、まだ何が起こったのか整理できてない感じでした。
母と妹は、担当医からいろいろと話を聞いてから、病室へ来てくれました。
この時はチューブだらけでした。
左腕に点滴、酸素吸入器、指先には酸素濃度を測るやつ、右手と尿道にはカテーテル・・・。
そして、“絶対安静” 、“絶対!!” らしいのです。 命にかかわる ”絶対” ですからねー さすがに守りました。
ステントの安定と動脈からの出血を危惧しての事らしいのですが、これがつらかった・・・。
~つづく~