木曜日
ぼくは明日から別のクラブへ移ります。
28歳の頃、ぼくは小高い丘の市営住宅に新居を構えた。そこで何気なく見下ろした向こうの方にテニスコートが見えて胸躍らしたのを覚えている。F県の職場でテニス同好会に入り二三度参加して二三回打っただけで、テニスのテの字も分からぬまま、こわれてK県まで落ちのびで来ていました。
訪ねてみるとクレイコート3面で片側にコートサイドいっぱいの壁打ち用のブロック塀、さっそく入会して壁打ちをしていたに違いない。そのうち東京へテニス遊学していた次男が戻ってきてテニス教室を始めたが、なぜあの時習わなかったのかと後悔したことがある。本を買って読んではいたが上達は遅々としていたに違いないのだ。
当時の会員は裁判官、医者、教師がメインで県内唯一のテニスクラブではと思う。各県に一つくらい「ローン」と名のつくクラブが存在するけど最初に存在したクラブが競って付けた名前ではと想像している。
その裁判官の中に水俣病裁判の最初の判決を下した裁判官もいたが、すぐに転勤していなくなった。
10年くらいたったころ、クレイコート3面が1面になるという。保険会社と提携していたが2面の返却を迫られていたらしい。
ウインブルドンで沢松和子がダブルスで優勝したりして、テニスブームになっていた頃かもしれない。タイミングよく近くにテニスクラブがオープンするとあって、みんなで移って行った。不義理をしたという気持ちがあったので、もう戻ることはないだろうと思っていたが、今回何度か訪問している内、同世代の経営者と再会することが出来た。
昔話に花が咲いたし、現実の話もした。経営者は孤独だと思った。粗茶ながらと何度も立って行って入れてくれ、恐縮していた。
彼のテニスの話は沢松和子時代の昔話で沢松和子とも親交があるらしい、中央の往年の選手との人脈はさすがだと舌をまいていた。
何かあったの、の問いに、年老いたぼくは最初にお世話になったこのコートで晩年を過ごしたいとるる話した。
周囲に建物が林立して昔の畑の中にあったイメージは様変わりしているが、昔の儘のたたずまいも残っていて、ぼくはなつかしさと郷愁を感じていた。
新しい人口芝コート二面、古い人口芝コート二面、なつかしいクレイコート1面の5面。
多分ぼくは一人壁打ちと籠ボールで楽しんでいることでしょう。