月曜日 風強くておまけに寒い
ローンコートとの半世紀余の紆余曲折。あの頃一番若かったと思えるぼくは、ここを熟知している一人の翁としコートにコートに感慨深く立っている。昔のことを知る人はほとんどいない。コートを作った先代オーナーは造像となって敷地の一角に残されたいけすの中から見守っている。
ほぼ半世紀前、ぼくは新婚で入居した市営住宅から見下ろす先にテニスコートを見つけて胸が高鳴っていた。ある日コートを探索に出かけた。草ぼうぼうの長い空き地が東バイパスになるなども知らずの若者だった。あぜ道小道を歩いてようやく先の尖った石柱の門にたどり着いた。中にはいると、広場の先に小さなハウス、その先に隠れたように横並びで三面のクレイコートが見えた。今思えばこじんまりしたアットホームなテニスクラブだった。
まだ車を運転しない裁判官、医者、先生がメインの会員の中に、初心者のぼくも入れてもらえた。その中には水俣裁判の最初の判決を下した人もいた。ジャッジがクリーンだったか首をかしげるシーンも、そんな時代のこと。
ぼくには週一回のテニスもままならぬ時代だつた。沢田和子がアン清村と組んだダブルスがウインブルドンで優勝した時にテニスブームが訪れた。この田舎街でもテニスクラブが次々とオープンした。少しの土地でできるオートマシーンのテニス遊びもあちこちと出来ていた。
そのころだっただろうか、ある生命保険とタイアップして出来ていたというこのクラブの異変を耳にした。オーナー所有の一面になるというのだ。一面ではと仲間と一緒に近くのバイパス沿いにオープンするというテニスクラブに鞍替えするということがあった。ローンのオーナーはクラブハウス、駐車場を更地にして2面のテニスコートを作り、その内、和解したらしく5面のテニスクラブとなって運営していたが、遠ざかりそえんになっていった。
例のバイパス沿いに出来ていたハード2面クレイコート6面のテニスクラブはテニスブームが通り過ぎると、経営が傾き隣接に計画しているショッピングセンターの駐車場用地として身売りされてしまった。
僕たちの頼りは、家から近いクレイコート8面のテニスクラブへ、そこへ団体で交渉して移っていった。そのクラブも経営は苦しかったらしく、我々団体の入会で一息ついていたらしかったが、その資金を使い果たせば、前途は容易でなかった。
バイパス沿いのクラブに何年いたのか、近くのクラブに何年いたのか定かでないが、錦織選手が17歳でデビューするころに、クラブは閉鎖、全てを清算して更地にして、新たなクラブとして出直すとオーナーは説明した。隣地にとりあえず2面のコートを作り、クラブができるまでにと便利を図ってくれていた。
錦織が大活躍しだして、またテニスブームが到来を告げていた。立派なテニスクラブが完成した。二階建てのクラブハウスを挟んで4面と2面の人工芝コート、二面の奥に3面の屋内コート。
新たな支配人は母校出身のコーチらを参集していた。会員を前にしての支配人の雄弁さに、クラブの先行きに期待していた。が、しばらくすると会員に人気のあるコーチが辞めさせられ、やめてゆくという事態となって、会員も減ったりしてガタガタとなりだした。
確かにブームに乗ってテニス人口は増えてはいたが、安い公営のテニスコートがクラブに負けじと増加していたので、クラブ運営の厳しさは続いていたようだった。ぼくはコーチを首にした支配人と衝突してローンへ行くことにした。ウイークデイのローンは閑古鳥、一人壁打ちサービスの練習などや、仲間を呼んでのシングルスなどで過ごしていた。
二年ほどするとローンの半分を売りに出す話を耳にする。相応するように前のクラブの経営者が変わるという情報。新たな経営者で会員を募集する案内が届いていた。
名前の変わった元のクラブへと舞い戻ったのだが、屋外6面はほとんど閑古鳥、こんなことで大丈夫だろうかと心配していると、またも二年ほどで、ここでも半分を処分するという話が出た。
今のぼくはホームはない。休会しているということで、協会の届はルーセントでお願いしている。とりあえずはローンで楽しむことにしたい。
ウイルスのおかげで1年間テニスの試合はお預けになるだろう。左肩はいまだ完治せず、右腕のサービスもいまだ未完成。回復の機会を与えられたのだと解釈して、体力作りに励もう。