月別アーカイブ: 2020年4月

コロナの締め付け ジュワジュワ~と厳しく

水曜日 晴れ  昭和の日

5月の連休明けを首を長くしていたのに、休業要請は解除されないようだ。今更言っても仕方がないが、フランスのようにロックダウンをもっと早くやっておけばこんなことにならずに済んだものを、と思う。小出し小出しの政府のやり方が、こんな結果になってしまっている。こんなことをズルズルやっていると国がへたばる、弊害の方が多くあちらこちらに噴出しそうだ。

みらい大橋公園にもパトカーが巡回した。若者たちで密集していると感じていたバスケのゴールにシートが被せられていた。可哀そうに。行政のやりそうなこと。

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みらい大橋公園

日曜日 晴れ

ぼくが何年間も通っていた橋げたの広場は、運動公園方面へと繋ぐ橋、その橋は途中で白川沿いへと舞い降りるあい路もあるから、その周辺には、橋げたの数えきれない。
ぼくは「みらい大橋公園」命名の前を何度も通っていたが気が付いたのは昨日のことだった。大変失礼していた。

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(みらい大橋公園)

孫娘のきりんが小学生時代、夏休みで帰ってくるたびに一度は一緒に遊びに来ていた。当時はテニスでなく白川の浅瀬におりて網で小魚をとったり、川岸の広場でトンボを追ったりしていた。

ぼくが来るようになったのは、左肩を痛めてサービスがうてなくなった頃、3年くらいなるだろうか。

コロナウイルスが起きてから土日に関わらず人が集まりだした。バスケットボールのゴールのある壁は若者たちが密集しだした。残りの壁にも誰かが遊んでいる。

人込みを避けてぼくは夕方行くようになった。専用テニスの壁は殆ど満員の状況。ぼくの向かう壁、夕方は殆ど無人。狭いし後ろには水路が控えているので、うかうかすると、ぽちゃんと落ちる仕掛けになっている。サービスの練習がメインなのでそれで充分なのでした。

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散歩の途中テニス仲間をたずねる

金曜日 晴れ

朝の散歩、休会しているクラブを目指して歩く。駐車場に顔見知りさんがいたので声をかける。今日は女子ダブルスとミックスの日と言うこと、ハウスの中にも声をかけて話せるような人影なし。帰ろうかと思ったが、近くのテニス仲間を久しぶり訪問した。

コートまで1分くらいのOG氏を訪ねると、外で草花に水やりをしていた。 農業高校の校長さんだったので、草花には詳しい。ひとしきり草花、テニスグラブの情報などを会話する。
奥さんを亡くして一人暮らしと思っていたら、今は受験勉強のお孫さんと一緒に暮らしていると聞いて、ほっとした。

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(エビネ)

それから少し離れたところに、昔はテニスコートを作っていたという、広大な屋敷を有するMR邸を訪ねた。丁度作業着姿で庭にいるのが目についた。自宅は熊本地震で大きな被害を受けていたのを当時表から見ていた。自分が設計したというセルターを思わせるような家は、周囲を分厚いコンクリートで囲われ、建物は地下にかなり埋没させていると説明を受けた。腰をかがめたように頑丈そうに建っている家は、どんな災害でも耐えるに違いないと思わせた。
コートの後らしきところに造作中の庭造り、震災での家の廃材を利用したというけれど、あるじが4年をかけて苦労して作られた作品で趣のあるものだった。庭には天を突くような大木2本、屋敷を守るように、木漏れ日を落としていた。

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戦没者記念碑に遭遇する 日吉神社

金曜日 晴れ

当県では昨日一人今日一人と感染者が出たらしいがタクシー関係からの発生。だが県の休業要請の発令からジュワジュワ~と締め付けが厳しくなっているようだ。朝方散歩しての帰り、近くパチンコ屋の横を通ると閉鎖されていた。

戦時中贅沢は敵だと憲兵か主婦連か知らないけれど、チェックして回っていたらしいが、コロナウイルスとの戦争、外出は敵だとプラカードを持って街中を行進して回ればどうだろう。頭の中では、なんかあの当時のことを呼び起こす。似通ったことに思う。

朝方1時間ほど散歩。尚絅短大のほうに向かって畑中の道を下って行く。短大の広場のある裏面にでた、部外者禁止とあった。諦めるとすぐ横の草ぼうぼうの道が並行して目についたので、そこを進んで行くと神社にたどり着いた。
地元の人たちに守られている由緒ありそうな小さな神社だった。歩を進めると大きな記念碑が目についた。
碑文
昭和6年の満州事変、昭和12年日支事変に続く昭和16年の大東亜戦争終結までの十余年のわたる戦争においては、日本男子が国の平和を願い戦場に征った。
その中にあって八久保地区からも15名の方が出征され、その中6名の方が戦死された。思えば出征されるあなた方を、ここ日吉神社において武運長久を願し、区民挙げての万歳万歳と歓呼の声で見送りあなたがたは湧きたつ愛国心に?り、我が家もかえりみず戦場へと向かわれた。・・・・・・・・
昭和20年8月15日終戦となったが、尊いあなた方の戦没、そして従軍された代償として、今日、平和で豊かな時代となった。
戦後50年の節目に節目に当たり深い感謝の誠を棒げ、茲に碑を建て、後世に名を残し平和の礎とするものである。
平成七年八月十五日 日吉神社氏子一同

あの当時を偲べば、からいも畑がメインの貧しい農村地帯だったと想像できる。
働き盛りの若者のほとんであっただろう15名に赤紙が来て、家族はどんな思いをされたのだろうか。招集された15名内6名が戦死、よくど9名も生き残って生還できなあと考える。日吉神社の加護があったに違いないと思ったりもした。13年前建立されたのだから、当時は80歳代で、生きておられた方もおられたはず、遅まきながらも、奇特な有志の方がいらっしゃったから、立派な碑が建立されたのだと思うと胸に熱くなるものを感じていた。
生存されていた人たちは感慨深いものを感じたことだろう。

下の道まで下りて左へと曲がり高速道路まで歩いて横にあるスーパーへ久ぶり行き買い物。高速道路沿いに上って行き1時間歩くで帰還。スマホで8500歩。
夕方はデイズのリコールの修理に行く。プログラムの修正で1時間ぐらいで終わる。

その足で近くの橋げたの壁打ちでサービスの練習。かなり良くなった気がするんだけれど
どうなんだろう。いつもここで満足していてもコートではだめだった。しばらくコートではできないが、致し方なし。

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県もいよいよ休業要請を明日からするという

火曜日 晴れ

ヘルストロンへ4月になって初めて座りに行った。コロナが流行し始めて行くといろいろと声高にしゃべくり始めたので、行く気がしなくなっていた。近頃便秘薬を飲んでも便秘が続くので、どうしたものかと考えていると、どうも座りに行かなくなって、悪くなったような気がしてきていた。パチンコ屋の前を通って行くと休みになっていた。火曜日は定休日だったのかなと思って、行くと明日からパチンコ屋は休業する見たいという。

ハクジュプラザ武蔵ケ丘店のお客さんは椅子を一つ置きに座っても、従来よりは少なく感じていた。インストラクターを信頼している方は座りに来ていると感じた。

座る時間も少し短くして、終わると入り口を開放して、出口では手に消毒液を噴霧してくれ、精いっぱいの努力は感じていた。

だが、休業要請が出るということで、明後日から5月7日まで休むと知らされた。

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新型コロナ1年で収束せず  専門家は厳しい見方

月曜日 曇り

コロナウイルスの収束の見通しは不透明、世の中真綿で首を絞められるように、ジュワジュワ~ととんでもない方向に向かっている気がしてならない。

5月6日の連休明けまで辛抱すれば明るい兆しがと、国民は我慢しているが、どうもそんなに甘くはない気がしている。

緊急事態宣言が全国に拡大されて、公のコートはすでに門を閉ざしていたが民間のテニスクラブまでおよびだした。5月6日までに効果が表れず、もっと締め付けるかもしれないが、安倍さんの小出しのコロナ対応に国民は辟易して、もう黙ってはいないだろう。

専門家は言う、新型コロナは一年では収束せず、「ダットライト」だと思う。一二年先まで見通し、もうオリンピックどころではない。中止を決断して、コロナウイルスを何とか退治して、国力回復に万進する。というくらいの政治家が表れてほしい。いないなあ、今の政治家の中には・・・。

優柔不断な安部さん、それをソンタクしておこぼれを頂戴しょうとする政治家集団では、日本列島はアップアップしながら沈没するだろう。第二次世界大戦の戦艦大和のように。

テレビでは往年の名勝負が放映されている。
そんな中の一つ、伝説の名勝負として、1996年ウインブルドン準決勝、伊達公子26歳VSグラフ27歳(ドイツ)の戦い放映された。何度か見たが、NHKのBSで映像も良くて、久しぶり見ても面白かった。ファースト落としてセカンドを取り、日没順延翌日ファイナルが行われる。23からのサービスをブレークされ24 25 伊達公子のサービス、らぶふぉーてぃとマッチポイント取られるが、そこから頑張り35、そしてグラフのサービスで力尽く。36。

セカンドの途中だったか、観衆から「グラフ、ぼくと結婚してくれー」と叫びが会場に響き渡る。グラフがサービス打とうとした静まり返っていた瞬間だ。グラフは苦笑交じりで、ひと呼吸おくと「ハウマッチと聞こえた気がする」いくら持っているの。場内爆笑の二度とみられないシーンがここであったのだと、忘れられない。

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二回目の立田山へ

木曜日 晴れ

ローンコートでしばらくやろうと思っていたら、急に変な風が吹いていた。

コロナウイルス、収束はけんとうもつかないが、長引けば戦後最大の危機になりそうな予感。
日本は手形決済がメインの商取引の世界。4か月近い手形を切っているので、仕事がなく、そうしてできない、余力のない零細中小は資金繰りができるか否か、銀行は金のあるところには積極的になるが、ないところには手のひらを反すようになる。

年金生活の今では他人ごとのようになるけど、大変だと思う。これを切り抜けていくのは。
シャッター通りも増えることになるのだろう。

長男の孫娘が土曜やってきていた。三人で二度目の立田山へ行く。家族連れの群れがあちこちと木陰で遊んでいた。そうか学校は休みなんだ。
沼ノ端を歩いているとしだれ桜が目に入る。少し残った葉桜に来年は満開の時にと考えていた。

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バースデー

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ローンコートとの関わり

月曜日 晴れ 風強くておまけに寒い

ローンコートとの半世紀余の紆余曲折。あの頃一番若かったと思えるぼくは、ここを熟知している一人の翁としコートにコートに感慨深く立っている。昔のことを知る人はほとんどいない。コートを作った先代オーナーは造像となって敷地の一角に残されたいけすの中から見守っている。

ほぼ半世紀前、ぼくは新婚で入居した市営住宅から見下ろす先にテニスコートを見つけて胸が高鳴っていた。ある日コートを探索に出かけた。草ぼうぼうの長い空き地が東バイパスになるなども知らずの若者だった。あぜ道小道を歩いてようやく先の尖った石柱の門にたどり着いた。中にはいると、広場の先に小さなハウス、その先に隠れたように横並びで三面のクレイコートが見えた。今思えばこじんまりしたアットホームなテニスクラブだった。
まだ車を運転しない裁判官、医者、先生がメインの会員の中に、初心者のぼくも入れてもらえた。その中には水俣裁判の最初の判決を下した人もいた。ジャッジがクリーンだったか首をかしげるシーンも、そんな時代のこと。

ぼくには週一回のテニスもままならぬ時代だつた。沢田和子がアン清村と組んだダブルスがウインブルドンで優勝した時にテニスブームが訪れた。この田舎街でもテニスクラブが次々とオープンした。少しの土地でできるオートマシーンのテニス遊びもあちこちと出来ていた。

そのころだっただろうか、ある生命保険とタイアップして出来ていたというこのクラブの異変を耳にした。オーナー所有の一面になるというのだ。一面ではと仲間と一緒に近くのバイパス沿いにオープンするというテニスクラブに鞍替えするということがあった。ローンのオーナーはクラブハウス、駐車場を更地にして2面のテニスコートを作り、その内、和解したらしく5面のテニスクラブとなって運営していたが、遠ざかりそえんになっていった。

例のバイパス沿いに出来ていたハード2面クレイコート6面のテニスクラブはテニスブームが通り過ぎると、経営が傾き隣接に計画しているショッピングセンターの駐車場用地として身売りされてしまった。

僕たちの頼りは、家から近いクレイコート8面のテニスクラブへ、そこへ団体で交渉して移っていった。そのクラブも経営は苦しかったらしく、我々団体の入会で一息ついていたらしかったが、その資金を使い果たせば、前途は容易でなかった。

バイパス沿いのクラブに何年いたのか、近くのクラブに何年いたのか定かでないが、錦織選手が17歳でデビューするころに、クラブは閉鎖、全てを清算して更地にして、新たなクラブとして出直すとオーナーは説明した。隣地にとりあえず2面のコートを作り、クラブができるまでにと便利を図ってくれていた。

錦織が大活躍しだして、またテニスブームが到来を告げていた。立派なテニスクラブが完成した。二階建てのクラブハウスを挟んで4面と2面の人工芝コート、二面の奥に3面の屋内コート。
新たな支配人は母校出身のコーチらを参集していた。会員を前にしての支配人の雄弁さに、クラブの先行きに期待していた。が、しばらくすると会員に人気のあるコーチが辞めさせられ、やめてゆくという事態となって、会員も減ったりしてガタガタとなりだした。

確かにブームに乗ってテニス人口は増えてはいたが、安い公営のテニスコートがクラブに負けじと増加していたので、クラブ運営の厳しさは続いていたようだった。ぼくはコーチを首にした支配人と衝突してローンへ行くことにした。ウイークデイのローンは閑古鳥、一人壁打ちサービスの練習などや、仲間を呼んでのシングルスなどで過ごしていた。

二年ほどするとローンの半分を売りに出す話を耳にする。相応するように前のクラブの経営者が変わるという情報。新たな経営者で会員を募集する案内が届いていた。

名前の変わった元のクラブへと舞い戻ったのだが、屋外6面はほとんど閑古鳥、こんなことで大丈夫だろうかと心配していると、またも二年ほどで、ここでも半分を処分するという話が出た。

今のぼくはホームはない。休会しているということで、協会の届はルーセントでお願いしている。とりあえずはローンで楽しむことにしたい。

ウイルスのおかげで1年間テニスの試合はお預けになるだろう。左肩はいまだ完治せず、右腕のサービスもいまだ未完成。回復の機会を与えられたのだと解釈して、体力作りに励もう。

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ウイルスのおかげ だらだらの日々

日曜日 雨

テニスの試合がないというのは張り合いがなくなる、目的がないと楽しみがなくなり退座な毎日が、のんべんだらりと続いている。それはコロナウイルスのおかげで家に閉じ込められている人たちも同じことが言える。

奇跡的に残っていた公のコートも誰かが告げ口したに違いない。ローンに世話役らしき人が先日見えていたので、テニスに来たのかとかと思っていたら、違っていた。
あとで管理人に尋ねると口をとんがらかしていろいろ言う。いいんじゃないですか、この際稼いで、閑古鳥がなくよりは、ここの存在を知らしめるには、いいチャンスですよ。

二三日前近くの田畑方面を久しぶり歩くと、宅地造成工事なども始まって変化が見られた。

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・ねがはくは花の下にて春死なん

金曜日 晴れ

さくらの花が散り始めた。こんなときふと西行を思い起こす。

・もろともに我をも具してちりね花うき世をいとふ心ある身ぞ

どうか花よ、散るときは自分をも一緒に連れていって散ってくれ。自分はこの憂き世を厭い、逃れたいと思っている。

・うき世にはとぞめおかじと春風のちらすは花を惜しむなりけり

春風が惜しげもなく桜の花を散らしてしまうのは、花を惜しむがあ余り、花をこの世の憂さにいつまでもさらしておくまいとするからだ。

・ねがはくは花の下にて春死なんそのきさらぎのもち月の頃

この世で自分は生涯花を愛した人間だから、死ぬならどうか桜の花の咲く下で死にたいものだ、釈迦が入滅された二月十五日頃に。

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昨日、ローンからの帰り道久しぶりサンサンの湯に車を飛ばす、客は予想以上に少なかった。帰り売店でラッキョウ2キロ購入して帰る。

ラッキョウ酢は近くのスーパーでと思ったが、まだ早すぎたのか売っていなかった、今朝一番にサンフラワー出かけた。二本三キロ余をリックに入れてのチャリは、思った以上に重い。やばいと感じながらなんとか橋げたの壁打ちに到着。1時間サービスの練習。

出来不出来の差が多すぎる。どうすべきか、迷うばかり、もどりテレビのYouTubeでスライスサービスと叫んでいた。

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