水曜日
今日は北九州トーナメント、75sの決勝戦が行われるはずだった。昨日、シングルス準決勝の後行われたダブルス準決勝、セカンド03でぼくの左足が動かなくなり棄権を申し入れた。ファースト23までは接戦でぼくのサービスで、打とうとしたとき、ふくらはぎの筋肉に痛みがはしった。ヤバイ、サービスを落してチェンジのときに、用心のため巻いていたテーピングを強く巻直して、頑張ろうとしたが立ち直ることは出来なかった。
気温は30度越えていたという、9時から桃園公園テニスコートで始まったシングル。相手は初めての選手九州毎日にも出場、ここでの1回戦は九州毎日で1回戦勝ち抜いている選手に勝っていた。あなどれない選手だという思いはあったが、試合はその通り進んでいた。体は石のように重く感じながら、頑張ろうとしていたが、相手の方は闘志満々でかかって来ていた。オタオタしながら23 24 25とズルズルと追いつめられて45までばん回したが46で取られていた。サービスは肩をかばってスピンサービスだけで勝負していたが、不安定で肝心なところでダブルフォールトを犯したりしていた。
負けは覚悟をしながらもセカンドはサービスを少し工夫して、相手のバックを徹底的に攻めることにした。それが功を奏したが62でものにしていた。ファイナルはスーパータイブレーク(10ポイント)これも10 5で取り2時間近い試合に決着がついていた。
隣りのコートで同時進行していた準決勝は64 26 10 7で1シードが勝利していた。二人とも似たような戦いで決勝に進んでいたのだ。
ダブルスを棄権してから本部に行き明日のシングルスの決勝戦はデフォしますと事情を説明して了解してもらった。三日はかかると思っていたトーナメントは1日で終わっていた。
いろんな青春時代を過ごした北九州。八幡の桃園テニスコートは友達のマンションから車で10分足らずに位置していた。こんもりとした木立に囲まれて、コートの立地には恵まれていた。
早朝散歩するという友達に付き合うことにした。もう明るい5時に起きて1時間ほど半世紀前の街を散歩した。道路が整備されて昔をしのぶのはむずかしかったが、友達の説明でうろ覚えの記憶をたどっていた。
ここが市民会館で今は使っていないと彼は説明をした。ここは演奏会をしたところと尋ねると彼は笑顔でうなずいた。駅から歩いてこられるところだったと記憶を探っていた。緊張して尺八を吹いた記憶がある。
あの頃はぼくたちが一番若い方で男性は20も30も年配の方々、準師範、師範、大師範とかいう人ばかりで雲の上の存在だった。生きている人は何人いるんだろうかと思ったりすると何とも言えない寂しさむなしさあった。
琴を弾いていたうら若き女性たちはぼくらと同じ世代、いいおばあちゃんになって孫たちをあやしているのだろうか。一人くらい琴を趣味としている人いるかもしれない。
円形の道路があった。ラウンドアバウト(環状交差点)と言って信号機がなくてもスムーズに行くことができると友達は説明してくれた。試作でしばらくは説明書きがあったがもうないという。北九州市は企業が多く集まっているから、我が方等と比べればずっと財政豊なんだと想像たくましくしていた。
見上げれば皿倉山、自然の大きな変化はないにしても、道路も整備されて、マンションがニョキニョキと視界を遮りつつある街。裏通りを歩けは半世紀のママのなつかしさをくすぐる所もあって、あの頃はある意味で良かったような気持ちも湧いてきたりしていた。
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