寒くなってきた。
冷え込んでいいこともある。りんごが赤く色づいた。
やっぱりりんごは赤いほうがよい。
若い木だったが100個ほど収穫できた。買えばもっといいものがあるが、自分で世話をして作ったものに優るものはない。
さて10月10日に母が満99歳数えで100歳を迎えた。
昨年白寿の祝いをしたが今年も一増えて百寿でのお祝いに鳥羽・相差(おうさつ)に一泊旅行に行った。
少し手前の展望台から太平洋を眺める。地球は丸いね。
鳥羽出身の兄弟歌手鳥羽一郎と山川豊は有名だが、鳥羽一郎の「兄弟酒」の歌碑がある。
「兄弟船」のほうがポピュラーだと思うが、そちらは別のところにあるのかな。
「おふくろ話に兄貴がほろり つられておいらもまたほろり・・・」
ぴったりのシチュエーションだな。
相差は伊勢湾の入り口で太平洋に面した”あまちゃん”の町である。
日の出
民宿旅館の前は海水浴場。津波が来たらひとたまりもない。ここに住むには覚悟が必要だ。
的矢湾の入り口。
明治44年に日露戦争・日本海海戦に加わった駆逐艦春雨がここで座礁し多くの犠牲者を出したそうだ。親父の生まれた年だ。
母は大正3年(1914年)生まれ。第一次大戦の始まった年だ。
ほぼ一世紀、発展と戦争へ突き進む日本を見てきたということか。
関東大震災を覚えているという。伊勢方面まで揺れはあったんだ。
12歳、9月1日だったが尋常小学校はまだ夏休みだったと。
昼時で箸を持って家を飛び出たそうだ。笑えるような笑えないような。母の12歳はどんなのだったろう。
B29の焼夷弾で周辺に火が回ってきて、ふとんを持って逃げ出したとか。
ふとんが全財産だったんだな。必死だったろう。これは笑えない。
しかしよく覚えているものだ。
長兄が作った感謝のことば。
「東京で明治の庶民のくらしを写したE・モースの写真展を観たが
正直で勤勉で貧しくとも誇りがあった、そんな今失いつつある日本人のこころを持った
人だと思う」
私はそんな言葉を贈った。
いつか別れがやってくるだろうが一日でも長く元気でいてほしい。