宗教は怖い。最近は特に。
まあ偏見のせいもあるだろう。というか宗教の本質がわからないというか、育った時代が戦後で宗教教育的なことはご法度だったこともあるだろう。
私の父も2歳で父(私の祖父)を亡くしているので、生きていくのに精一杯だったのか宗教儀式はあまり関心がなかったようだ。仏壇はあったがおまいりしている姿が記憶にない。
そんな父の27回忌の法要が郷里のお寺であった。
平成2年に79歳で亡くなったが、どう計算しても26年後は平成28年だから27回忌は来年ののように思う。お坊さんもなにも言わなかったな。こんなことはいっちゃいけないかもしれないが、お布施がもらえればいつでもどこでもと思っていらっしゃるかもしれないな。(この時点ですでに不信心だな)
会社で長崎出身の友人がいたがキリスト教徒だと言っていた。キリシタンの末裔だったのだろう。でも信心の話しをしたことはなかった。
イスラム教なんてトルコのブルーモスクで祈る人々はみたが。こちらは観光気分だった。
身近な仏教も理解できないのにキリスト教やイスラム教が理解できるわけはないか。
立派なお寺だがどれだけの寄進で維持されているのだろう。いずれは衰退するように思うが、それでも仏陀は永遠か。
よくお寺には銀杏が植えられているがそれなりに意味があるのだろうか。
お寺の方はウチムラサキと言っておられた。一般的にはブンタンというのかな。
お庭の錦鯉は変わらず。(同じ鯉かどうかわかるわけはないが)
交配していけばどんどんいろんな模様ができるのだろうか。DNAって不思議だ。
法要の後、母の誕生祝いとして昼食会。
母の妹(三女、確か95歳)も遠く栃木から来てくれていた。その娘(私のいとこ)に会うのも久しぶりだ。次女(98歳)もいるし長寿系DNAなのだ。
27回忌の法要が行えるのは、誰にもというわけではない。喜ばなければいけないのだろう。
母が生まれたのは第一次世界大戦の始まった年。まさか第三次世界大戦まで経験することはないよう祈ろうか。
ギネスブックに載るぐらいまで生きてもらいたいものだ。
(それじゃ子供のほうが先に逝ってしまってあの世からしかお祝いができないかも)